父のこと

5月5日、5:40、父が他界した。

直接のきっかけになったのは4月13日。退職後、熱心に通っていたスポーツジムに原付バイクで向かう途中での転倒である。もともとパーキンソン病があり、歩行に困難があったことから、近所でも原付バイクを利用していた。転倒していることを発見したご近所の方から知らせがあり、すぐに日赤病院に救急搬送した。

頭を強く打っており、脳出血もあったものの、当初は意識もあり、会話ができる時間もあったそうで、4月25日には治療計画の目処がたったということでリハビリを中心とする西日本病院に転院することとなった。しかし転院後、徐々に容態が悪くなり、看病についていた母が呼びかけても返事をしないことが増えてきたという。

容態が悪化したのは5月3日。急激に血圧が低下し、発熱もあった。母から連絡があり、私と妹も急遽、5月4日に帰省した。医師から受けた説明は、なんらかの感染症の疑いがあり、肝機能、腎機能が低下している。透析が必要だが血圧が低いため現状のままではできない。血中のカリウム値も高く、何が起きてもおかしくない状態。透析ができるよう血圧を戻す必要があるが、戻ったときに迅速に対応するためにも日赤に戻したほうが良い、とのものだった。

同日夕方、日赤の受け入れが決まり救急搬送。そのまま集中治療室に入り、発熱の原因を探りつつ血液を浄化する治療に入った。しかし翌5日早朝、日赤から連絡があり、病院に駆けつけたものの、それから1時間も経たないうちに永眠してしまった。死因は敗血症性ショック、ただはっきりした感染原因がわからないため、病院は病理解剖を希望された。母妹とも相談し、後の医療の助けになるならと解剖を受諾。連休明け7日に解剖を行ったため、10日まで葬儀がずれ込んだ。解剖結果の詳細は半年後になるが、現段階では肺炎のほか、腸の結束部に感染の痕跡があり、そこが原因になった可能性が高いとの説明を受けている。

私と妹が病院に到着したときには、たくさんの管につながれ、呼吸も苦しそうな状態だった。しかし母や妹が声をかけると目を見開き、私たちを見ていた。おそらく家族が揃っていることは父にもわかったと思う。早すぎる死ではあったが、最期を四人家族揃って迎えることができたのはありがたいことだった。

母によると事故の前日まで大好きだった「ズンバ」を楽しんでいたそうで、突然のことに驚かれた方も多いと思う。強がりな父のこと、苦しむ自分の姿を見られるのは嫌うだろうと思い、皆様へのお知らせが遅くなった。そのことは改めて皆様にお詫びする。



私の父は地元紙で「型破りのスーパースター」と紹介されるような異色の公務員で、その交友関係の広さ、べらぼうに仕事ができる人であることは子の立場でもわかっていた。しかし親がスーパースターであるというのは子にとっては一定の圧になるもので、父と同じフィールドで仕事をすることには強い抵抗があった。

しかし人生というのは不思議なもので、ふと気づいてみたら私も(公務員と外部プランナーという立場の違いこそあれ)似たような仕事をしている。地域振興。観光振興。イベント。だからこそいま改めて、なぜ父はスーパースターだったのだろうと考える。

まっさきに思い出すのは、なにかの機会に父と仕事仲間の皆様の飲み会に参加したときのことだ。そこで目にしたのは、上下分け隔てなく、すべての人に膝をつき、率先して酒を注いでまわる父の姿だった。対立をおそれず、常識にとらわれず、大好きだった明大ラグビーよろしくがんがん「前」に進む。そんな(おそらくは仕事仲間の皆様、親族の皆様にも共有されているであろう)父のイメージが一面的なものでしかなかったことを私はそのときに理解した。

おそらく父の最大の強みは仲間に恵まれたことなのだ。そしてそれは、父自身が仲間を強く信頼し、その信頼に応えようと頑張ったからこそ得られた強みだったのだと思う。

葬式の展示用に昔の写真をひっくりかえしていたら、父が若い頃に撮ったと思われる母の写真が大量にでてきた。仕事一辺倒で趣味らしい趣味もない父だと思い込んでいた私にとって、その写真はとても意外なものだった。フィルムの時代らしい、一枚一枚、丁寧に撮られた写真。それを見て改めて、父の信頼は家族にも向けられていたのだと思った。「怖い」父ではあったが、特に母のことは全面的に信頼していたと思う。愛していたと思う。思えば父はそのことを臆面なく口にする男性でもあった。父の世代でそれができる人がどれだけいるか。仕事のこと以上に、私はそのことで父を誇りたいと思う。

父を信頼し、父とともに歩んでくださった全ての皆様に感謝したい。そしてこれからも、私たち家族を、特に父を長年にわたって支えてきた母を、皆様の力で支え、応援していただければと思う。

本日会葬いただいた皆様、弔電をいただいた皆様はじめ、想いを寄せてくださった全ての皆様に深く感謝いたします。


(10日葬儀、親族挨拶の草稿として)