表現の不自由展・その後、のその後について

こちらもFecebookからの転載です。

 

前回あえてあまり触れないようにしていた津田さんの責任については、説明不足、準備不足により結果として作家の表現機会を奪ったことに重い責任があると思います。津田さんはこれからも継続して、何を意図して、どうのようなプロセスで「表現の不自由展・その後」を企画し、実施し、中止したのか、丁寧に説明していくべきだと思います。一方で、美術の専門じゃない人にやらせるからこんなことになるんだ系の意見については、まあそうかもしれんけどつまんねえ話だなあと思っています。

 

津田さんとは前に一度だけ話したことがあって。その時の印象は見た目よりはるかに真面目な人というもの。炎上を狙っている(と取られても仕方ない)SNSでの振る舞いは僕も好きじゃないし、政治的な指向についても自分とはかなり違いがあると思う。ただ彼が芸術祭で遊んでる、政治的な主張のために利用してるとまでは思わんなあ。そう思われてしまうのもまた彼の普段の言動ゆえとはいえ。大真面目にやってると思うよ。

 

私は表現の不自由展の話が出てくる前、アファーマティブ・アクションの話がでてきたときに、ああ、これは芸術の専門家からはでてこなかった視点だなあと思ったのよね。日本国中に似たような芸術祭が乱立するなかで、はっきりした個性を持った芸術祭がでてきたと思った。

 

もちろんそう感じることの理由のひとつに、自分自身も美術の専門教育を受けて現代アートの仕事をやってるわけじゃないということもあるとは思います。私の意見にもバイアスはあるでしょう。それでも私は芸術祭の新しい可能性を拓くうえで、愛知トリエンナーレが芸術監督の経験がない人に、純粋な芸術の専門家でもない人に芸術監督を託したことには一定の意義があったと思うのです。

 

だいたいですねえ、芸術祭が芸術の専門家だけが仕切る領域であって良いはずがないですよ。そうやって自閉していくのはほんとうにつまんないと思うんですよ。確かに十分な経験(予測能力)がある人が愛知トリエンナーレを仕切ってたらこんな騒動は起きなかったと思いますよ。この騒動が結果として表現の自由を制限する動きを強化していまう恐れがあるというのも(とても残念なことではあるけど現実として)その通りだと思います。でもなんつうか、それって報道の中立を建前に議論すべきことを議論しないテレビ番組みたいじゃないか!!

 

私は芸術祭こそラディカルな実験と対話の場であってほしいと思っています。そのためにもこれからも芸術の専門家以外の人との協働は進めていくべきだと思うし、この騒動に関する議論が芸術のことは芸術の専門家に任せるべき、みたいな閉塞的な結論に陥らないことを強く願っています。

 

あえて補足するのもかえって失礼かもしれんけど、アーティストやキュレーターのみなさまの美術に関する高度な専門性を軽く見ているわけではないことは念の為に補記しておきます。