沼地のある森を抜けて/梨木香歩

こちらは現代の日本が舞台である。叔母の死を契機として世話をすることになった不思議な「ぬか床」。この「ぬか床」には、どうやら主人公の家族にまつわるさまざまな物語が、それこそ糠味噌のように、漬けこまれ、発酵しているらしい。そしてやがて、いやいやながらもぬか床の世話を続ける主人公に起こる不思議な出来事。。。

SFの書評などで有名な大森望氏は、この小説を「伝奇小説」だとし、梨木さんが書く「ぬか床」は、スタニスワフ・レムソラリスにでてくる「海」の語り直しだと解釈していた。伝奇小説であることに異論はない。これはきわめて現代的な手法で書かれたファンタジーであり、SFであり、その統合としての伝奇なのだと思う。しかしレムが書いた「海」と、梨木さんが書いた「ぬか床」は、かなり趣が違うのではないだろうか。

レムの「海」は、人間にとって(科学的には)理解不可能な生命の象徴だった。人間の言葉では知覚することも理解することもできない、まったく別次元の生命がありうるというのが、レムの書いた「海」だと(少なくとも僕は)思う。
これに対して梨木さんが書いた「ぬか床」は、同じように現代科学の言葉では説明できないもではあっても、それが人間を含む生命のひとつの変形の可能性として提示されている。つまり「ぬか床」は、どんなに奇妙奇天烈ではあっても、僕たちと同じ祖先をもつ、僕たちとつながる存在なのであり、それがソラリスの海とは決定的に異なる。ぬか床は(上にも書いた言葉でいえば)「すべての生命は、どこか深いところでひとつにつながっている」という確信を与えるものであって、その綿々とした「命の連なり」こそが、この小説を読む人に深い感動を与えるのだと思う。

それにしても梨木さんの描く人物たちは、どうしてこうも魅力的なのだろうか。今回の主人公は科学畑の人で、愛とか恋とか苦手なタイプ。しっかりと科学的に確信できる論拠を求めているように見えて、なぜか科学的には理不尽極まりない「ぬか床」の存在は、ごく自然に受け入れている。
研究所の先輩として登場する風野さんも魅力的だ。極めて父権的な家庭で育ち、その反発から男性であること(というか雄性・雌性どちらかの性を有していること)を否定しながら生きている。有性生殖を諸悪の根源として毛嫌いし、分裂(無性生殖)を繰り返す変形菌をペットを飼っている。
どちらも実際にいたらかなり変な人だ。しかし同時に、もし実際にいたらぜひとも友達になりたいタイプだとも思った。原則として「科学」を信じていることを含め、自分にとっては特に親和性が高いキャラクターなのかなとも思うが、おそらく、あらゆる読者が、この二人のどこかに自己投影できる部分を探しあてるのではないだろうか。

そしてこの二人が体験する「ぬか床」をめぐる物語は、生命の起源、あるいは生命の究極の目的の探究にまで広がっていく。彼らが、彼らなりに「生命がつながっていく」ことの意味を理解する最終章の美しさは、これまでに読んできた幾多の小説の中でも傑出していた。

たったひとつの細胞の記憶としての「孤独」。受精の夢、新しい可能性への夢、生命の更新への夢、それは生命の孤独を強く意識させると同時に、解体し、緩め、ほどいていく。受動と能動の波がウォールを崩し、ひとつの潮を呼び込む。こうして繰り返されてきた夢の中で、繰り返されてきた思い。
「解き放たれてあれ」。
「あなたは父の繰り返しでも、母の繰り返しでもない、まったく世界でただ一つの存在…」、これこそが梨木さんの「再生」のイメージなのであろう。

最後の詩のように美しい2ページを読んだ時は泣けて泣けてどうしようもなかった。娘に心配されてしまうほどに^^
僕は梨木さんの作品の中で、これが一番好きかもしれません。SFやファンタジーが苦手な人にはつらいかもしれませんが、ぜひ多くの人に手にとって、読んでいただきたい名著だと思います。

(加筆修正なし、元記事は07年10月作成)