ジョニー・マッド・ドッグ

水曜日。渋谷シアターNにて。

アフリカ・リベリアの少年兵の話。しかもキャスティングされているのは実際に少年兵として戦っていた少年たち。事前に知っていたのはそれぐらいだったが、それだけでも「重い」映画であることは容易に想像できた。そして映画は、予想通り、いや予想以上に「重い」ものだった。

冒頭。カメラは民家に押し入る少年兵たちを映し出す。シネマスコープで撮られた映画にも関わらず、画面に映るのは極端に寄った映像ばかり。その狭窄した視野は少年たちに見えている世界そのものなのだろうか。

命乞いをする老人を文字通り足蹴にし、金品はもちろん、少しでも価値のありそうなものは全てを奪い取る。少年を見つけると、その少年に自らの父親を撃ち殺させ、そのまま新たな少年兵とすべく拉致してしまう。狂ったように叫ぶ少年たち。彼らは何の躊躇もなく、奪い、犯し、殺しまくる。まるでそれが自らの使命であるかのように。

この映画を観るときに、もっとも恐れていたのは、ただひたすらに「アフリカ」の残酷さを描いた映画になっちゃいないかということ。アフリカにこれほどの混沌をもたらしたものたちの責任に言及せず、ただ単に世の中にはこんなに怖い人たちがいると恐怖を煽ってみせるような映画になっちゃいないかということ。

ある意味、この映画は、そんな懸念のままの映画だ。大きな作戦が実行される前夜、士気を高めるために少年たちが狂ったように踊り叫ぶシーンは、まるでホラー映画かのよう。輪郭がぼやけるほどのスローモーションが多用され、おどろおどろしい音楽が付け加えられる。「薬」で飛んでる少年たちの目が映し出され、そのドラッギーな映像が少年たちに見えている景色そのものであることを示唆する。そう、少なくとも単発単発のシーンを切り出せば、この映画の子どもたちは、まるで「怪物」であるかのように扱われてもいる。

そして映画の中で、なぜこの少年たちがこんな状況に追いこまれるに至ったのかは、ほとんど説明されていない。直接に少年たちを戦争に巻き込んでいる大人=指揮官は登場する(そしてその指揮官の偽善はしっかりと糾弾されている)ものの、戦争が起きたそもそもの理由、その戦争を動かしているパワーバランスに関する説明はないに等しい。登場する白人は病院を警護する国連兵士のみ。政治的・歴史的背景を排し、ひたすらに戦場のリアリティだけを描いてみせる(そして解釈を観客に委ねる)手法は、ある意味「ハート・ロッカー」を彷彿とさせるところもある。

しかし僕は、(ハート・ロッカーとは違って)この映画は優れて普遍的に戦争の悲惨さを伝えていると思った。その理由はいくつもあるが、まずは爆弾処理班という、戦争の中では例外的に「殺さない」人を主人公にした映画と、圧倒的な略奪者・殺人者たちを主人公にした映画の違いに触れるべきだろう。ハート・ロッカーが観る人にとって「共感しやすい人」を主人公にしているのに対し、この映画にでてくる子どもたちは(少なくとも映画の前半においては)とんでもなく感情移入しにくい存在だ。ほとんどなんの理由もなく、あるいは理不尽かつ一方的な理由で、他人を踏みにじり、殺していく子どもたち。だからこそ、そんな狂った子どもたちがほんの一瞬、「子どもらしさ」を取り戻すシーンには激しく心を揺さぶられてしまう。

(ちなみにラストシーンも二つの映画では対称的です。ハート・ロッカーでは(少なくとも例の町山・宇多丸論争がある前の僕の理解としては)主人公が再び英雄となるべく勇ましく戦場に旅立っていくのに対し、この映画では・・・って、ここはネタバレなるので書かないようにしますね)。

パンフレットをみると、この映画に出演した元少年兵たちは、監督であるジャン=ステファーヌ・ソヴェール自身が現地(リベリア)に入り、キャスティングしたそうだ。そして監督は、1年間、子どもたちとともに暮らし、彼らが俳優になるための準備を行ったという。子どもたちにとって、自らの残虐行為を再現する演技は大変な苦痛を伴うのではないかと推察されるが、監督は「1年間一緒に暮らし、撮影し、演技を学んだことがある種のセラピーになりました」と語っている。「自分のしたことを認識することで、受けた心の傷を外に出していくような役割を果たして、彼らは少しずつ成長していった」と。いま、監督は、ジョニー・マッド・ドッグ財団を設立し、この映画に出演した15人の子どもたちの面倒をみる(教育を受けさせ、生活の世話をする)とともに、その支援の輪を他の子どもたちにも広げていこうとしているという。

パンフレットには、もうひとつ印象的なエピソードがある。まるで戦争さえもが遊びのようにみえる、、、という質問者に対する監督の答え。

「だからこそ彼らは“危険な兵士”と呼ばれていたのです。殺人の自覚がなかった。大人たちの操り人形のように人を殺していたのです。指揮官はそれを意識していたけれど、子どもたちは麻薬を使われていたこともあって、自分たちがやっていたことをきちんと認識していなかった(中略)ある子どもに人を殺したのかと尋ねたらこう答えました。“人に向けて銃を撃った。すると、その人は倒れた”と。些細な違いですが、彼ら自身には殺人をしている認識はなかったのです。」

つまりこの映画は、アフリカに混沌をもたらした大国の罪こそ描かないものの、その混沌(果てしない憎しみと殺し合いの連鎖)の中を生き抜こうとした子どもたちの「痛み」に対しては徹底的に真摯に向き合っている。子どもたちを「正義の味方」にすることもなく、観客に共感される「ヒーロー」にすることもなく、さらには「か弱き犠牲者」とすることさえもなく、子どもたちが受けた「痛み」を観客に追体験させることに成功している。それは監督や出演者自身が、自らの「行為」そして「痛み」に対し、真正面から向き合った結果だ。その真剣さ、真面目さゆえに、僕はビグローの映画よりも、この映画の方を圧倒的に支持する。

こんなに長く書いてるのに実はもうひとつ、重要なエピソードを書ききれてないのだが、その重要なエピソードは、少年たちとは別の意味で戦争の犠牲となった少女の物語だとだけ言及しておきましょう。そして少年と少女の物語がすれ違い、重なり合う脚本も見事であったということも。

冒頭に書いたとおり大変に重たい作品で、観終わったあとはぐったりすると思いますが、ぜひ多くの人に見てもらいたい作品だと思います。東京での上映はもうすぐ終わってしまいますが、観れるチャンスのある方はぜひに。お薦めです。