ピナ・バウシュ「私と踊って」

鮮烈。身体表現の可能性。舞台という表現形態の可能性。極限まで省略しながら、極限までイマジネーションを引き出す、魔法のような90分。30年以上も前につくられながら全く色あせない。想像以上にすごかった。面白かった。ほとんどがドイツ語で演じられる舞台だけにほんとは買ってあるパンフレットを熟読してから書いたほうがいいのかもしれないけど、あえて全く読まない状態で、「舞台」を見た印象だけで、一度書いてみる。それがこの舞台には相応しいと思うから(いっぱい間違ったこと書くかもしれませんが、パンフレット読んでから訂正すべきは訂正します)。

この舞台の根底にあるテーマは「ディス・コミュニケーション」なのだと思う。

主人公は二人の男女。「どこかであった?」との言葉で語り始める二人の会話は、どこまでも噛み合うことがない。命令形(あるいは独りよがりな独白)でしか語れない男。ひたすらに「私と踊って」と懇談する女。単に会話が噛み合わないというのとはちょっと違う。より深いどこかで、二人の間にはコミュニケーションの成立していない。絶望的なすれ違い。絶望的な隔絶。スタイリッシュな舞台セットの中で繰り返される、決して届くことのないコミュニケーション。

それにしても、舞台にいるダンサーたちの身体のなんと美しいことか。一緒に見てくれた役者さんが言ってたが、同じ舞台にたつ人からみると、彼ら彼女らは「たっている」だけですでにレベルが違うのだという。体躯の強さ。重心の低さ。それは指摘されてみればなるほどその通りと思う。舞台にたつその佇まいだけで、彼らは緊張感をつくりだすことができる。

ピナの舞台はいつもそうだが、いわゆる大きな踊り、派手な踊りは少なめ。しかしいざ動き出すと、その所作には一点の隙もない。完璧に計算された舞踏。完璧に踊りきる技量。たとえ無理のありそうな動きであっても、彼らは全く無理をしているように見えない(だから客としては、適度に張り詰めつつ、過度の緊張、そうすることを強制されるような緊張感を抱かずに舞台を見ることができる)

演出のタイミングも絶妙だった。緩急、スピードの強弱も見事なのだが、特に効果的に感じたのが「反復」。この舞台では、同じ歌、同じ台詞、同じ所作がところどころに繰り返される。しかもその意味が、そのときどきで変化していく。もっとも「つらい」シーンがもっとも「笑える」シーンとして反復されたのには参った。すげえ。ほんとに凄い舞台って、こんなことまでできるんだ!!

ピナがかけた魔法に酔いしれるうち、あっという間に舞台はクライマックスに近付いていく。「オチ」自体は誰もが想像しうるもの。物語として着地するにはあれしかないし・・・。ところがピナは、エンディングにとある演出を持ってくることで、その約束された「オチ」を、予想をはるかに超えた大団円に転換させてしまう。観客の心を突き動かす。「私と踊って」「私と踊って」「私と踊って」・・・その言葉がどのように叫ばれるのかは、これはもう見た人同士のナイショ話ということにしておきましょうか♪

コミュニケーションの不全は、生きていくうえで必ずつきまとう問題で、私たちは常に強い抑圧の中に生きている。行き違う言葉たち。行き違う気持ちたち。それでもわたしたちは必死につながろうとする。つながろうとすること、生きていくこと、その困難さと美しさ、、、ピナの舞台には両方が見事に凝縮されている。

黒服の男たちが意味ありげな木(あの木は何の木なんだろう、パンフレットを読み込めばそのあたりもわかるのかな)を持ちながら主人公たちを丸く囲むシーンとか、もう呼吸するのも忘れるぐらい素晴らしかった。

こんな作品を残してくれたピナに改めて感謝。もう一回見たいぐらい好き。

最初に書いたけど身体表現、舞台表現の限りない可能性に酔いしれた90分だった。