ヒアアフター

死後の世界がテーマということで、おじいちゃん、ついにスピリチュアルな方向に??と警戒している人もいると思う。まあそういう側面もないとはいわないけど、この映画の本質はそこにはないと思う。この映画が描いてるのは「つながる」ことの意味。もっといえばコミュニケーションの不可能性と可能性の問題だ。少なくともここ最近のイーストウッド映画を(圧倒的な共感をもって)見続けてきた自分にはそう思える。
冒頭、噂になっている津波のシーン。映画がはじまってすぐの絵が一番派手ってのはイーストウッドにしては珍しいと思うし、ここまで本格的にCGを取り入れてるのも意外。ところがこれがまた良くできてるんだ。濁流に飲み込まれるなかやっとの思いで掴まったところに後ろから赤い車が迫ってくる感じとか。その後のくまの人形のカットバックとか。やっぱりCGだからどうこうって問題じゃないんだよな。映画の上手い下手って。いま写ってる必要があるものは何かってことが徹底的に分かってる人が撮ると映画はこうなるんだ。いわゆるアート系映画とは異なるが、これもまた芸術。極めてオーソドックスでありつつ、一部の隙もない、見事な絵作り、語り口。
で映画は、その津波臨死体験をしたフランス人ジャーナリストの話、双子の兄を失った少年の話、そしてマットデイモンが演じるサイキック(死後の世界と会話ができる人)の話が、交互に繰り返される形式で進行していく。バラバラに進行していた3つのストーリーがいつしか絡み合う。その構成自体は小説でも映画でもさして斬新なものでもないだろうが、それぞれの話の響き合い方がもう・・・

(以下ネタバレぎみなのでできれば観賞後に)

冒頭にこの映画はコミュニケーションについての映画だと書いた。実は3つの話はどれも周囲とのコミュニケーションの不全に悩む人の話なのだ。これは例えば、スタニスワフ・レムソラリスで、あるいはディックが電気羊で書いたようなことと同じなんじゃないか。「死後の世界」という通常はコミュニケーションが成立しない「異世界」を設定することで、現実の世の中にあるコミュニケーションの不完全性を浮かび上がらせる。そういう意味では、これはスピリテュアルな映画ではなく、イーストウッド風のSFといってもいいんじゃないだろうか。
そして多くの優れたSFがそうであるように、老かいなイーストウッドは単に世をはかなむような映画は撮らない。それぞれに孤独を抱える三人。でも最後の最後、三人の運命が引き合わされるように重なるとき、私たちは理解し合える他者と出会うこと、つながることの喜びに共振し、コミュニケーションのポジティブな可能性に涙する。
「生きろ!」
ここ最近のイーストウッド映画を観てると、もうそう言われているとしか思えない。どんなにしんどくても生きることには意味がある。他者とつながることには意味がある。そして私たちは、他者とつながることなしには、ぜったいに生きていくことはできない。御大ほどの人生経験がない僕なんかが文章にするとただのマッコウ臭い説教になってしまうが、彼は本気でそう言ってると思う。びっくりするぐらいさりげなく。圧倒的な説得力をもって。現存する作家でここまで温かい人いないでしょ。イーストウッドはすごいよ。すげえかっこいいよイーストウッド!!
映画を観た直後、Twitterイーストウッドはもう上手すぎて腹さえ立ってくるレベル、と書き込んだ。まさにそんな気分だった。混雑する新宿を独りずんずん歩きつつ、目は真っ赤だった。