火を熾す ジャック・ロンドン

村上春樹で一番好きな本は??

定番中の定番な話題ですが、僕は(気分次第で言うことが変わることもあるけどまあ通常は)「神の子どもたちはみな踊る」をあげます。なかでも好き、というか、繰り返し繰り返し読んでしまうのが「アイロンのある風景」。前のエントリーで「恋の罪」が空洞を巡る物語なのではということを書いたけど、これもまた空洞の話。「わたしからっぽなんだよ」。。。

その「アイロンのある風景」にでてくるジャック・ロンドンの「焚き火」。前から読みたい読みたいと思いつつ機会がなかったのですが、柴田元幸氏の選定、翻訳で単行本がでたのを見かけ、即座に衝動買いしてしまいました。

本単行本では「火を熾す」と改題され、表題作ともなっているこの短篇。実際に読んでみると、想像していたとおりの、ある意味では想像していた以上に、生き残ることへの執着を感じさせる短篇でした。迫り来る死に抗い、最後まで生き抜こうとする旅人。これを“本質的には死を求めてる人の話”として読むのかと思うと「アイロンのある風景」のあのオンナノコ、なんだっけ、名前がでてこないけど、あの子が抱えている寂しさが余計に深く染み込んできます。焚き火のおじさん(こちらも名前が思い出せない)の諦観もまた。

表題作に限らず、この短篇集に登場する人物たちはみな、過酷な状況を必死で生き抜こうとします(少なくとも目に見える現象としてはという意味です)。しかし、その理由のようなものはいっさい示されることがありません。ただただ漠然と、そこにある、生への執着。しかし実際には、ロンドン自身は「絶望を身体の芯まで染み込ませ、ひとりぼっちで海に溺れて死んでいった(アル中になりモルヒネで自殺した)」のであり、死への憧憬を抱きながら生き延びようとする矛盾、あのオンナノコを深いところで揺さぶった根源的な矛盾は、確かにこのバラエティ豊かな短篇集全体の通奏低音になっていると感じました(まったくの余談になってしまいますが、このあたりの本人にも説明のつかない「生への執着」は僕にコーマック・マッカーシーを強く連想させます、マッカーシーはロンドンの、というかアメリカ文学の正当な後継者なのでしょうね)。

ジャック・ロンドンは小説の面白さの原点だ」とは柴田元幸氏の帯コピー。「原点」という言葉が適切かどうかはちょっとどうかと思うのですが、それでもこの短篇集には、何百年も、いや何千年も前から人間が永々と続けてきた「物語る」という行為の意味が、ものすごく純化された形で結実しているように感じました。僕たちはきっと、100年後も、1000年後も、「物語る」ことをやめないのでしょう。それはきっと、根源的な矛盾を抱えた僕らにとって必要不可欠なことであり、僕らが生き延びる唯一の手段なのでしょうから。

そういえば「アイロンのある風景」にはこんな一節もなかったでしょうか。「予感というのはな、ある場合には一種の身代わりなんや。ある場合にはな、その差し替えは現実をはるかに超えて生々しいものなんや。それが予感という行為のいちばん怖いところなんや。そういうの、わかるか?」(※)


※この一文を引用するために「神の子どもたちはみな踊る」を確認、オンナノコと焚き火のおじさんの名前も思い出しましたがあえて本文はそのままにしておきます。

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

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