ボーイ・ミーツ・ガール/汚れた血

早稲田松竹レオス・カラックスの特集上映。かなーり前に見たはずだけど、もうひとつ記憶が曖昧な最初の2本が映画館で観れるということでいそいそと。

改めてみると恥ずかしいようなこそばゆいような。良くも悪くも80年代(ポストモダン)だな〜と。こういう映画をみて(というか、こういう映画を俺は観てるんだせってことで)何かを語りたがっていた大学生の頃をね、反省しますよね、やっぱり(笑)。その言い方もまた自意識過剰だと思うけどさ(苦笑)。

ただ、いまみてもその映像の美しさは圧巻だった。

まるで散文詩のような『ボーイ・ミーツ・ガール』。あの冒頭。コントラストの強いモノクロ映像。艶かしくメタリックなセーヌ川の色あい。打ち捨てられ、流れていくキャンバス。積み重ねられる哲学的な(つまりはあまりにも不自然な)台詞。そして必要に繰り返されるドアップのカットバック。ショートカットのミレーヌは全身に倦怠を纏い、パーティグラスは弾け、砕ける。ふちが欠けたカップ。へたくそなピンボール。まるでセーヌ川に投げ捨てられたキャンバスのように、あらかじめ予定されていたかのように、アレックスは、深い不吉さのなかに飲み込まれていく。

汚れた血』では、中盤のドニ・ラヴァンの疾走シーンを鮮明に思い出した(いま思うと『サウダーヂ』のあのクライマックスは『汚れた血』の影響なんでしょうね)。前作に比べると、詩よりは物語に近く、最後まで物語をドライブさせるためのサスペンスも仕掛けられている。それがカラックスの資質としての「美」へのこだわり(かちっと決められた絵の構図やカメラワーク)と融合し、「映画」としての完成度が高まっている。そしてこれは誰もが言うことだが、ジュリエット・ビノシュの奇跡のような美しさときたら!!あのラストシーンに去来する感動は文句のつけようもなく映画的だ。

今も昔も、カラックスの分身、ドニ・ラヴァン演じるアレックスには、というか彼がぐたぐたと自意識を垂れ流す台詞には、苦手意識がある。いかにも「芸術」でございといった映画としての態度にもいらっとくる。俺が好きなのは高邁な芸術映画じゃなくてダーティ・ハリーなんだよ!って叫びたくなる。しかしそれでもなお、この2本の初期作には、抗い難い魅力がある。カラックスが自らが求める「美」に抗えないのと同じように、僕もまたカラックスの「美」に抗うことができない。

美を求めて疾走したパンクヒーロー、カラックス。どれだけいらっときても、恥ずかしかってみても、やっぱり彼の初期作は美しい。