アクト・オブ・キリング

町山さんの激押し。どうしてもこれだけは観たいと思っておりまして、公開3日目の月曜日にシアター・イメージフォーラムで。

映画を見終わってしばらく、吐き気がしてしかたなかった。もらい泣きする映画は数々あれど、もらい吐き気がする映画って初めてじゃなかろうか。あまりにも強烈なものをみたあとの、あの独特の神経がひりひりする感じ。渋谷に向って歩く道すがら、まわりから聞こえてくる音に過敏に反応してしまう。それぞれの音の周波数がいちいち見えてしまうかのように、神経に突き刺さってくる。普段は気にならない自分の足音のひとつひとつまでもが、妙にリアルで、でも足取りそのものはどこかふわふわしている。それぐらい強烈な体験だった。

映画の内容そのもの、あるいはシンガポールの現体制が抱えている闇についてはあちらこちらで書かれているだろうし、ここでは触れないことにしよう。ただ僕は、この映画を、映画がもたらしうる最悪の、そして最善の効果を同時に見せてくる映画であったことのみを記録しておきたいと思う(以下、遠慮なくネタバレしますので、未見の方は読まないように)。


虐殺の実行者、アンワルは、アメリカ映画に憧れた。ギャング映画に、西部劇に、スクリーンに展開される世界に憧れたアンワルは、俺たちは映画よりもっと残酷だったと自慢げに語る。しかし虐待される側を演じたアンワルは、その「アクト」を通じ、自分たちの行為がもたらしたことの意味を捉えなおす。無邪気すぎる映画の信奉者が映画に裏切られた瞬間。その残酷さこそが、この映画のもっとも恐ろしいところだと、僕は思う。

しかし同時に、その決定的なシーンの前から、アンワルにはどこか寂しさが漂っている。彼には明らかに戸惑いがある(ように見える)。なぜか。恐らくは、この映画に関わる虐殺者たちのなかでアンワルだけが自分たちの行為を正当化するコトバを持たないからだろう。

彼以外の虐殺者は、自分たちの行為をさまざまなコトバで語る。曰く。あれは戦争だったんだ。仮にそうだとして戦争犯罪じゃないかって?? 何をいってるんだ。戦争の倫理を決めるのは勝者だ。ハーグ条約だって、明日にはシンガポール条約になっているかもしれない。

正しいとか正しくないとかじゃなく、そうやって自分たちをコトバで語る人たちは体制のなかで地位を得ていく。しかしコトバを持たないアンワルは、英雄として褒めそやされこそすれ、権力とは無縁のようだ。

監督のジョシュアは、そんなアンワルに明らかに同情、というか共感の目線を向けている。1000人を虐殺したアンワルに、いいようのない恐怖や嫌悪を持ちつつ、同時にまた、この深い「ブルース」を抱えた爺さんのことがどうしても嫌いにはなれない。撮られた映像は、ジョシュアのそんな心境を明確に物語っている。そこにあるのはおそらく、同じように「映画」を愛してきた監督自身の内省なのだろう。自分もアンワルになれるのかもしれない。なってしまうのかもしれない。その恐怖。その恐怖が観客に伝染するからこそ、私たち観客もまた、アンワルの吐き気を受け取ってしまうのだと思う。

これほど不愉快な気持ちになる映画を初めてみた。「映画」とは何か。この映画は、単にかつての虐殺の実体や体制の闇を暴くのでなく、また虐殺の実行者たちの反省を促し、啓蒙するのでもなく、さらにその先を見つめているように思う。確かにこれは、必見の映画だ。