MuDA×humanelectro「SPIRAL」

最近知り合ったアーティストさんから是非にとお呼ばれし、大阪まで。会社に話を通すのが面倒なので自費で行ってきました^^

身体表現とデジタルテクノロジーの融合。それ自体には珍しさがなくなってもう20年経つ。ちょっとやそっとのテクノロジーには驚けなくなってしまった昨今、いわゆるメディアアート系のパフォーミング・アーツはますます難しい時代を迎えているように思うが、山本能楽堂で拝見したMuDAとhumanelectroの公演は、いまどき珍しいぐらい90年代の匂いが濃厚な、もろにメディアアートを意識させる公演だった。

ダムタイプの関係者が関わっていることもあるだろう。関西の舞台芸術に流れる水脈の確かさは確かに感じるし、身体そのものの美しさへの回帰傾向が顕著ななかで、これほど衒いなくメディアアートであることを主張していることも逆に新鮮だった。しかしそれ以上に90年代っぽさを感じたのは、この劇団の、この舞台に漂う、一種の「素人っぽさ」があるからかもしれない。

ダンスの世界はあまり詳しくないが、少なくともロックの世界の90年代は、絢爛豪華な「ショー」としてのロックンロールから、等身大の自分たちのロックへの回帰として語られる。ステージと客席の間にできた巨大な溝を埋めにいく行為。クラブカルチャーもそうだし、ギターポップもそう、そのなかで登場したカリスマのひとりがカート・コバーンであろう。

そして僕は、MuDAのパフォーマンスに(まるでカートのギターのようなむき出しのパフォーマンス)、その頃のロックに感じていた「素人の熱」のようなものを感じていた。

あとで聞けば、ダンスを専門的に勉強したメンバーは少ないという。というか聞かなくったってMuDAのメンバーの身体は専門的なトレーニングを続けているダンサーのそれとは明らかに別物だ。振付のバリエーションも少ないし、ストーリーも甘い。正直いって身体表現として美しいかと言われれば、いやそれはちょっと、、、と答えざるを得ない。しかしエネルギーはあった。なるほどこれは化けるかもしれないという熱量は感じることができた。

もう正直に書いてしまうが、僕は舞台を観ながら笑ってしまったのだ。主催のマイクパフォーマンスはプロレスのそれにしか見えなかったし、音楽も分かりやすいけどクドいし、なんかこう僕のような自意識過剰気味のかっこつけ人間にとっては色んな部分がこそばゆく、思わず笑ってしまったのである。しかしその笑いは明らかに自己防衛だ。そして、これを笑う自己防衛こそが、いままさに、この社会を覆う病理なのかもしれない。

納得いかないところは多々ある。個人的にはやっぱり問答無用に美しいものが好きだし、特に終わらせ方とかはもうちょっと考えてよと言いたくなったし、こんな暗い世相だからこそポップで明るい表現が観たいと思う。しかし同時に、こういうエネルギーに久しぶりに出会ったという感慨もまたある。

私の信頼するアーティストが「こいつらは天才や」と言う理由が理解できた。大阪まで行った甲斐があった。