チャッピー

絶対に好みの映画だとわかってました。完璧に好みでした。

意識。をデータ化(export)する。たくさんのSFが取り組んできたテーマだが、チャッピーには明らかなオリジナリティがあった。ギャングスタ人工知能を育てるという設定もそうだし、ロボット大戦と意識と身体という古典的(かついつまでも新鮮な)なSFのテーマの融合も見事だったと思う。

意識と身体は分けることができるか。これについてはWiredに寄稿されていた記事(http://wired.jp/2015/03/09/chappie-philosophy/)が面白かった。なるほど、今回の映画における二人の科学者(エンジニア)の対決をデカルトニーチェの代理戦争として解釈するのは面白い。ヒュー・ジャックマンが演じた「適役」の思想にはニーチェ、というナショナリスト(例えばナチス)が恣意的に引用するときの「誤解されたニーチェ」の思想に近いかもしれないし、「意識」のexportが可能と考える良心的な科学者ディオン(デブ・パテル)の思想にデカルト心身二元論の影響を見ることも可能だろう。しかしそうした哲学的な命題というより、この映画には、私たちいま生きる社会、あるいは世界に対するニール・ブロムカンプの思いが強く反映されているように思う。
端的にいえば、ヒュー・ジャックマンが演じた「適役」のより直接的なメタファーは「宗教右翼」だろう。彼はおそらく、多様な価値観の共存を阻む宗教右翼的な非寛容に対する反抗としてこの映画をつくっている。彼にとっておそらく、exportされた「意識」は、もうひとつの新たな「生」の可能性のひとつなのだろう。すべての「生」の可能性を肯定する、しかもおそらくは彼が共感を寄せているであろうポップカルチャーギャングスタ)を甘やかすことなく肯定しているところに、ブロムカンプの類稀なバランス感覚と「優しさ」を感じた。

それにしてもニンジャとヨーランディは素晴らしかった。「当て書き」脚本とはいえ、二人ともとても複雑なキャラクターを自然に演じていて、彼ら二人の奮闘がこの映画の「優しさ」に大きく貢献していることは間違いない。いうまでもなく「チャッピー」の造形も、適役のマッチョロボ(名前忘れた)の造形も素晴らしく、ロボット対決映画としても抜群に楽しかった。

もし意識がexportできたとして、あんな短時間で、パソコンの処理能力で扱えるのかよ!!的なツッコミどころはもちろんあるのだが、それを補って余りある美点をたくさん備えた映画だと思う。エンターテインメントとしての完成度も高いゆえに歴史に残る名作、、、となることはないと思うが、僕にとってはとても好きな映画だった。