ヤンヤン 夏の想い出

(前のエントリーに続き)大本命の「ヤンヤン 夏の想い出」。これは、、、なんでこれを見逃してきたのかと後悔する、大変な傑作だった。filmarksの星は久しぶりの5点!!(ちなみにfilmarksの点は標準3点、秀作3.5、誰にでもお勧めできる傑作もしくはお勧めしにくいけど僕は好き4.0、傑作でありなおかつ僕が大好き4.5、個人的生涯ベスト級5.0という基準でつけてます、映画に点数つけるなんて生意気すぎてすみませんと思いつつ)。

あれこれ細かく書き出したらきりがないけど、なにせ(この映画でもまた)主人公の女の子がこの上なく魅力的だった(まったくの余談だが、いま日本でこの役をやるなら広瀬すずをおいて他にないだろうとか思った)。愛おしいやんちゃ坊主ヤンヤン、真面目な善人(だからこそ残酷でも)あるお父さん、ヒステリーを自制できない(けど本当はとても優しい)お母さん、お互いにとても良く似た(だからこそ傷つけ合う)お隣の母と娘、体型も生き方もゆるゆるな叔父。その他、たくさんの登場人物のひとりひとりがすさまじい実在感を持っていた。控えめでありながら選び抜かれた言葉たち。繊細な演出とカメラワークがそんな言葉の魅力を引き立てる。総合芸術としての完成度の高さ。センスの良さ。「光陰的故事」('82)のまだどこか牧歌的な雰囲気、「恐怖分子」('86)が描いた高度成長の歪みに比して、この映画(2000)では極めてポストモダン的な社会問題が背景になっていることも印象に残る。台湾がこの18年間に体験した急激な変化を思わざるをえないし、エドワード・ヤンの映画は時代を映す鏡としても高い精度をもっているということだろう。

僕はエドワード・ヤンが描く「人間」の生々しさがとても好きだ。彼の映画には圧倒的な善人も、圧倒的な悪人もでてこない。誰もが少しずつ間違っていて、決定的な弱さを抱えていて、それでも懸命に生きている。ヒリヒリとした痛みを分かち合うこと。それでもユーモアを忘れないこと。そうか、そう思えば、エドワード・ヤンの作風は、カート・ヴォネガットに通じるところがあるのかもしれない。かつてヴォネガットは言った。「唯一わたしがやりたかったのは、人々に笑いという救いを与えることだ。ユーモアには人の心を楽にする力がある。アスピリンのようなものだ。百年後、人類がまだ笑っていたら、わたしはきっとうれしいと思う」。

この映画のラスト、ヤンヤンが最後に読む手紙には、そんなヴォネガットの優しさと響きあうところがあると思う。