否定と肯定

年末ぎりぎりになってかけこみで映画を観まくる(わりと例年そうかも)。昨日はギフテッドをみたときに予告編が気になったこちらの映画をシャンテにて。

2000年にイギリスで行われた裁判を再現した法廷劇。ホロコーストはなかったと主張する歴史家デイヴィット・アーヴィングは、「ホロコーストの真実」という本の執筆者で、ユダヤ人女性歴史学者であるデボラ・E・リップシュタットの講演会に乗り込み、ホロコーストには明確な証拠はないと主張し、デボラの本のなかで自らが侮辱されたことに対し抗議する。そして、訴えられた側に立証責任があるという(アメリカや日本とは逆ですね)イギリスで、デボラを相手どり名誉毀損の裁判を起こす。著書のなかでアーヴィングを痛烈な言葉で批判しているデボラは、その言葉が名誉毀損にあたらないこと(つまりアーヴィングのホロコースト否定論が不当であること)を証明することを迫られる。

否定と肯定」という邦題からも、この裁判の焦点が「ホロコーストの有無」にあったかのように受け取れるし、公式サイトやフライヤーにもそういう風に記述されているが、厳密にいえばそれは違う。デボラの弁護団の作戦は、ホロコーストの有無ではなく、あくまでもアーヴィングの否定論に十分な正当性がないことを立証すること。そのためにアーヴィングの著作を徹底的に洗い、そこで展開されている主張が誤認、あるいは意図的な曲解であることをひとつひとつ証明して行く。講演会でのアーヴィングの差別的発言などを取り上げ、彼が差別主義者であること、アーヴィングの主張が差別主義に基づく詭弁であり、信頼性に欠けると判断されること(つまりはデボラによるアーヴィング批判には正当性があること)を丁寧に証明して行く。

ホロコーストの有無に正面から向き合うことを、直情的で熱くなりがちなデボラに法廷で発言させることを、さらには生存者(ホロコーストを実際に目撃してきた被害者たち)に証言させることを避ける弁護団に、劇中のデボラは(そして映画をみている私たちも)いらだつわけだが、次第に弁護団の意図、危惧が明かされていく。弁護団が避けようとしたことは何か、守ろうとしたことは何か。それを理解したデボラの裁判後の会見は見事。この映画は、決して感情移入しやすい人物とはいえないデボラが裁判を通して成長する物語でもある。

映画としてもっと「面白く」することは可能だと思う。しかし過度に脚色することはこの裁判の本質的意義を「否定」することにもなりかねない。そこはさすがのBBCと言うべきか、この映画の製作者たちは、それこそイギリスの司法制度にならい、その制度のなかで「仕事」をすることに徹した弁護団にならい、扇情的な議論に陥ることを避け、あくまでも冷静に、真摯に、この歴史的裁判の事実を捉えようとしたのだと思う。結果として映画のルックは地味になったかもしれないが、とても誠実な態度だと思う。

対して、日本の広告が「ホロコーストは真実か、虚構か」みたいな煽りになっているのはとても不誠実ではないだろうか。アーヴィングのような歴史修正主義者は日本でも(特に最近大量に)跋扈しているわけで、仮に日本で似たような法廷闘争が起きた時、日本の司法は、あるいはメディアは、これほど毅然とした態度で臨めるのか、不安な気持ちにもなった。