われらが歌う時/リチャード・パワーズ

自己紹介代わりに、もう少し、過去にmixiで書いた日記を転載してみます。今日は読書ものから何点か。最初はリチャード・パワーズの「われらが歌う時」

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舞台は20世紀のアメリカ。音楽に特別な才能を持つ三人兄弟の次男が語り手となり、物語はこの兄弟が成長する時代と、彼らの両親が出会い、恋をした時代の二つの世代を行き来する。兄弟たちの父親は理論物理学者、母親は声楽を志した音楽家。そして子どもたちもまた、音楽には特別な才能を発揮する。国家元首でさえ頭をたれるほどの美声の持ち主である長男、その長男ほどの才能はないものの、視唱が得意で、音楽の奥深くに潜む構造を見つけるのが上手な次男、そして才能では二人の兄をはるかに凌駕している一番下の妹。

この一家が音楽に親しむ描写の緻密さと豊潤さは、これまでにも数多くあった音楽小説をはるかに凌駕している。ひとつの主題から出発し、自由自在に転調を繰り返しながら、互いの調を読みあい、音声を重ねあうクレイジー引用合戦、緊張感あふれるオーディションや試験の雰囲気、次男からみた長男の美声に対するうっとりするような描写。音楽を愛する人にとって、これほど読み応えのある小説はない。

もうひとつ、この作品を彩るのが理論物理学を中心とした理系ネタ。上に書いたとおり、父親が理論物理学者であることがその由縁だが、時間に対する考察は、まさに20世紀の物理学の大問題であった相対性理論量子力学の衝突を中心に、この小説の重要な伏流となっている。しかもそうした数理が、高度な抽象化による世界の理解(あるいは構築)という点で音楽と共通していることがはっきり意識されている。常々音楽と数学は似ていると主張している僕にとって、これほど深く納得できる世界観はない。

しかしこの小説の主題はそこではない。主題は「人種差別」だ。20世紀のアメリカを象徴する問題。アメリカがどうしても超えることができない課題。実はこの物語の両親、父親はユダヤ系でドイツからの亡命者であり、母親は黒人なのである。人種を超えた結婚がまだ殆どの州で禁止されていた時代、二人は、次の世代が人種の壁を越えてくれることを信じ、三人の子どもをつくる。

「自分がなりたいものには何だってなることができる」

互いに迫害された「血」を持つ両親は、その高い理想に根ざし、子どもたちに自らの全てをつぎ込んでいく。しかし、高い理想をもって始まった子育ては、厳しい現実にさらされていく。くしくも今のアメリカ大統領がそうであるように、両親のうちどちらかが白人であっても、一滴でも黒人の血が混じっていれば、その人は黒人にカテゴライズされる。長男はその特別な才能にも関わらず、白人文化の牙城であるクラシック音楽の世界で差別され、疎外される(もしくは「人種」を理由の一端として誉めそやされる)。そして同時に、黒人からは、白い文化の奴隷として、その白すぎる肌を非難される。人種問題に対して最も敏感で先鋭的な妹は、白人音楽の世界にいる二人の兄を軽蔑し、「白い」父親を批判する。黒人の解放を求める「過激」なグループに身を投じていく。娘に批判された父親の精神はゆっくりと崩壊していく。家族の絆も、両親が描いた理想も、子どもたちの夢も才能も、その全てが「肌の色」によってずたずたに引き裂かれていく。

「鳥と魚は恋に落ちることができる。だけど、愛の巣をどこに築けばいいというのか?」。

パワーズは、音楽(あるいは科学)は人種の壁を越えるといった安易な幻想を許さない。公民権運動から80年代のロス暴動へ。2世代の親子の物語がアメリカの20世紀と重なりあい、その闇の深さを容赦なくあぶりだしていく。そして、深い闇の中を必死に生きようとする両親の、兄弟たちの物語に没入するうちに、「読者は経験不可能で想像不可能だったはずの二十世紀アメリカの人種問題を生きてしまっている(巻末の解説より)」。

小説を読むことの意味をこれほど実感させてくれる小説が最近他にあっただろうか。これもまた巻末の解説にあったことだが、フォークナーが南部に、マルケスがマコンド村に、中上健次が路地に、深く深く潜り込むことでコズミックな世界観を築き上げてしまったように、パワーズはある混血の一家の悲喜劇を深く深く掘り下げることで、アメリカの20世紀を描き出し、全人類が共有すべき課題を提示してみせる。そして上に挙げた「本物の作家たち」がそうであったように、厳しい現実を描きつつも、その現実を必死に生きる人々には無条件の愛が注がれる。何度もくじけそうになりながらも「自分たちの音」を探すことをやめようとしない両親たち、兄弟たちの生き様の、なんと切なく、なんと美しいことか!!

上下巻あわせて1000ページを超える大著。ちょっと読むのに躊躇する分量だと思いますが、ご興味のある方は是非に。音楽好きの人には特にお薦めです。是非に。