縄文聖地巡礼

中沢新一坂本龍一の『縄文聖地巡礼』読了。前に感想を書いた『アースダイバー』の続編ともいえるつくり。「縄文」に魅せられた二人が、「縄文」の記憶を求めて日本各地を旅する。

対談の採録ということもあり、『アースダイバー』よりもさらに読みやすくなっている。装丁も写真もとてもいい感じ。しかし何より、二人の機知に富む対話が心地よい(坂本さんはほんとに頭のいい人だよな〜)

個人的には西は弥生、東は縄文という、自分の中になんとなくあった先入観が必ずしもあたっていないことが新鮮だった。西に生まれた自分からすると、大和朝廷以降の「国家」の影響が色濃い西日本からは「縄文」の記憶が(東北など、大和朝廷の影響力が薄かった地域に比べると)消し去られている印象があるのだが、なるほど、南方熊楠は田辺の地に旧石器時代の記憶を見ていたのだろうし、鹿児島や山口にも縄文の記憶は息づいている。同時に「縄文」という言葉が実は日本の中にあった多様性を見えなくしている可能性がないかという指摘も真っ当だと思う。諏訪には諏訪の、若狭には若狭の縄文がある。

線形・非線形の思考の比較も(ありふれた言い方ではあるけど)面白かったな。特に「琴」の話。琴以前の楽器といえば石笛のようなもので、そこでは音程のコントロールが曖昧なため、音律という観念は生まれにくい。ところが琴は数学的に調律できる。ある長さの弦を2対3という比率で割ると5度になり、1対2だとオクターブになる。それはもう数学なのだと、坂本さんがそう指摘する。

これに対し中沢さんは、人間が5度を知覚するのは旧石器の洞窟の中で祭祀をおこなっているときに自然に起きたことであることを指摘したうえで、神話と音楽を対照的に考えるレヴィ=ストロースの研究を持ち出す。神話の基本構造は自然と文化の対立。自然は人間と動物が共有しているもので、文化は人間だけがつくりあげた構成物。そして精霊などがいる超自然の世界がある。この神話の中にある自然と文化、超自然の関係が音楽における基音と5度、8度の関係とパラレルになっている。つまり基音が自然の状態であり、火を使ったり言葉を話すことで自然からはずれた文化=5度が形成される。しかしそれでは安定しないので、オクターブあがった8度に超自然が形成される。琴という楽器は、こうした自然と文化、超自然との関係を、人工的に、知的に組織化することを可能にしたのだと語るわけです。琴の誕生は国家の出現を予言している。

音楽と数学の類似性ってのは僕の中でもずっと興味があるテーマだったのですが、なるほど音楽、少なくとも音律を厳密に定める西洋音楽は極めて線形的なものであり、そこには「国家」を形成しようとする意思ともシンクロする組織化の原理が働いているのだろうと思います。で、もともとはそういう線形思考(近代哲学とか物理とか数学とか音楽とか)に深く馴染んでいたはずの二人が、今になって非線形としての縄文の思考方法に強く惹かれていることにも、数学好きのSF読みであると同時に、文化人類学にも強く惹かれる自分としては深く共感できるな〜とね。線形思考の行きつく先として「核」をあげているのも説得力がある。

ちょっと分かりずらい文章になってしまいましたが、まずは現場で何かを感じとることの大切さを思いなおすという意味でも、とても良い読書だったと思います。個人的に一番行ってみたくなったのは若狭。死者を送る場所であり、同時に命を受ける場所でもある海沿い、「ミサキ」の地に立つ美浜原発のビジュアルは写真で見るだけでも強烈だった。産小屋と原発が並ぶ風景。福井県は僕が唯一自分の足で歩いたことがない県だということもあるのですが、この風景はぜひ一度、自分の目で確かめにいきたいと思います。