泥の惑星 井土紀州

井土紀州さんが仕掛けていた「映画一揆」。最終日に滑り込む。
井土さんの作品は「ラザロ」の三部作しかみていなくて、でもその三部作を中野のポレポレで見たのは忘れがたい体験だった。確かその年のベストにしたんじゃないかな。井土さんはいまどき珍しい人。戦え!といえる人。社会に押しつぶされそうになってる人を本気で励ましている人。

今回の作品もまた「青臭い」作品だった。

ひとつには演技の若さ。映画学校の俳優科の卒業制作として作られた作品らしく、まあ正直にいえば演技はだいぶ安い(笑)。そもそも低予算映画なんでカメラそのものの画質とか、アテレコ特有のちょっと画面と台詞が合わない感じとか、こういう予算の映画を見慣れていない人には見づらい映画だと思うけど、例えばラザロではその安さを逆手にとったというか、ある意味オーバーアクトともいえる演技をやらせてて、役者の気合いで有無をいわさず圧倒するようなところがあった。
ところが今回は、これもわざとだと思うけど、いわゆる「自然体」な演技演出になっていて、それはやっぱり安さが際立ってしまうよね。サックスを吹き鳴らす女の子とか。まあ映画学校出たばっかりでね、音もアテレコなのは分かってるけどさ、せめてもう少し指とか動かしとこうぜみたいな(苦笑)

しかしそれでも、井土さんの作品には、観客を引き込むパワーがある。

今回の話は「小田急線の奥の奥」の農業学校に通う高校生たちの話。レンコンを掘りながらバカ話にあけくれる男子たち。退屈なようでそれなりに楽しい日々。「ずっとこんな感じだったら、それって幸せかな。不満かな」。

そんなある日。主人公の男子は一人の転校生に惹き付けられる。畑の植物が枯れていくのは地球滅亡の予兆だ。人間のせいだ。人間がいなきゃいいんだ。誇大妄想に取り付かれた天文少女。彼は少女に恋をする。将来のことなんてまともに考えたこともない楽観主義者の彼にとって、地球を憂う彼女はまさにミステリー(しかし実は、等身大の人生を考えることから逃避している点で、この二人は相似形だ)。

そこにMr.留年と呼ばれるちょっと風変わりな(帰国子女らしく、ライ麦畑でつかまえて、を原著で読んでたりするんだけど、英語以外の勉強はさっぱり、というか勉強に意味なんてないよね〜みたいな諦観にとらわれた)男も絡んでくる(彼はそんな自分をホールデンに重ね合わせている)。

少女に焦がれつつ、Mr.留年をめんどくさがりつつ、それでもなんとなく過ぎていく主人公たちの日々。しかしある日、それを一気に転倒させる出来事が起きる。

星座を破壊せよ。星と星の間に、新しい一本の線を引け。

残された言葉に破壊されるように、少年と少女のモラトリアムは破綻する。そして彼と彼女は、、、

例によってラストシーンではうっかり涙ぐんでしまう。人物配置の妙、退屈さと倦怠を象徴するロケーションハンティングの妙、ゆさぶりどころを心得たシナリオ、そして(安いながらも)丁寧なカメラ、映画の隅々から、登場人物に対する井土さんの愛が伝わってくる。

井土さんの作品を見ていると、つくづく自分は何のために表現に関わっているのかと考えてしまう。村上春樹は、それを「卵の側に立つ」と表現した。しかしいま、本気で卵の側に立とうとしているのは誰なのだろうか。僕は本気で、そちらに立とうとしているだろうか。自省しつつただ、井土さんが数少ない「本気」の人の一人であることを、僕は疑ったことがない。

この日は最終日ということで(じゃなくてもいつもいるのかな笑)、井土さんも劇場にきていた。上映前の挨拶を今も思い出す。録音したわけではないので細部は違うと思うが、おっしゃっていたのは以下のようなこと。

映画一揆に参加してくれた人たちの中から強いゲリラがでてくることを望む。
僕もますます、強いゲリラになる。

うん。僕も強いゲリラになろう。自分がアートや音楽に関わるようになった原点は何だったのかを忘れないようにしよう。ぶれず。ゆるがず。

まずはクリスマスとかで浮かれてるやつらにパンチくらわせないとな!!(そんなゲリラはだめです笑)