切り取れ、あの祈る手を

2012年のスタートにあたり。昨年は読書量の極端に少ない一年だった。長距離の出張が減ったこと。通勤中についついTwitterをだらだらと眺めてしまうこと。理由はいろいろあるが、311以降、あまり本を読む気分になれなかったというのもまた理由のひとつ。しかしそんな緩い感傷を、この本ががつんと叩き直してくれた。

テキストを読み、読み直し、書き、書き直していくこと。ベケットがいうところの「古いねじの新たな回転」。徒労とも思えるその作業をずっと続けていくことへの覚悟。それは311以降、自分の中に繰り返し繰り返し立ち上がってくるテーマとも重なる。「アートはこの世界に対して有効でありうるのか。」その問いに対して、佐々木中は藝術が不在だった時代などないと力強く言い切る。

安易な終末論に対する嫌悪。佐々木は「大きな物語は終わった」などといって言って何かを言った気になってる輩を徹底的に攻撃する。ニーチェを、ルシャンドルを、フーコーを引きながら。ヨーロッパ近代社会の成立に向けて繰り返されてきた「革命」の本質的な意義を問い直しながら。そして高らかに宣言する。手前勝手な終末を思いながら祈る手を、あの祈る手を切り取れ!そして読め!読み続けろ!書け!書き続けろ!人はずっとそうしてきたし、これからもそうするしかないんだ。

あの日陸前高田で観た風景がいまも自分の深部に残っている。あの風景の中で、僕は深く迷った。「アートは有効でありうるのだろうか。」でも有効だとか有効じゃないとか、そういう問題じゃないのだと思う。人は生きる限り、藝術を、美を、物語を、テキストを求める。



読了後、「灯台守の話」という小説にでてきた一節を思い出した。その小説の中で、灯台守のピューに対し、主人公の少女シルバーが問いかけている。

「お話して、ピュー。」
「どんな話だね?」
「ハッピー・エンドの話がいいな。」
「そんなものは、この世のどこにもありはせん。」
「ハッピー・エンドが?」
「おしまいがさ。」

また同じ小説の中にはこのような一節もある。

「器械の使い方だったら、わしは−わしでなくとも誰だってーいくらでもお前さんに教えてやれる。灯は今と変わらずきっかり4秒に1回光るだろう。だがな、お前さんに本当に教えてやらねばならんのは、光を絶やさないようにすることだ。どういう意味か、わかるか?」
わたしはかぶりを振った。
「物語だ。それをお前さんは覚えなきゃならん。わしが知っているものも、わしが知らないものも」
「ピューが知らないものを、どうやって覚えればいいの?」
「自分で話すのさ」

終わりなんてない。そう、終わりなんてないんだ。だから語ろう。語り続けよう。たとえ徒労であっても。徒労としか思えないときがあっても。

表題作の最終章で紹介されているトルストイのエピソードが強く印象に残る。彼は99%の人が文盲だった当時のロシアで、あの圧倒的な作品群を書き続けた。彼はたった1%の可能性に掛けて、そして勝ったんだ!!

「物語ることは力だ」