パパ・タマフマラ「島」

恥ずかしながら初めてのパパタラ。これまで観てこなかったことを後悔する素晴らしい舞台だった。

舞台に人生があった。

どこの誰のものかは分からないけど、その舞台から立ち上がってくるものは、誰かの(あるいは他の誰でもない自分自身と重なざるをえない誰かの)人生そのものだった。出会い続けながらすれ違い続けること。見つかるはずもないものを探し続けること。遠くを見つめながらすぐそばにあるものを見落してしまうこと。幾重にも幾重にも重なってくる声。時間。空間。その境界は霞み、顕れては、また溶けていく。わずか60分の舞台。しかしその密度は信じがたいほど高く、終盤には思わず涙がこぼれてしまう(分かりやすく泣かせようとしてるシーンなんてどこにもないのに!!)。今の日本にもこれほどまでに知的で深みのある舞台(身体表現)があるんだ。。不勉強を恥じつつ、今、この時代に、この舞台が見れたことを心から嬉しく思った。

その舞台に登場するのは、たった二人の役者さん。小川摩利子さんと松島誠さん。この二人がもう。。。なんといえばいいのだろう。例えばピナの舞台を見に行くと、ダンサーたちが立ってるだけでカッコいいじゃないですか。動き出した途端に鳥肌がたったりするじゃないですか。あの感じに匹敵するぐらい、暗転から立ち現れただけで存在感があるのです。しかも二人とも、動けるし、歌える。小川さんが最初に声を出すシーン。その声の響き方だけでもう鳥肌がたった。ピアニッシモで響き渡る声。若い世代の役者やダンサーをくさすのは趣味じゃないけど、確かにこれは「モノ」が違う。鍛え方が違う。松島さんもそうだけど、徹底的に身体を、声を、鍛えてきた人の凄み。

その二人の身体と声の可能性を引き出している小池さんの演出もまた。初めてお会いしたけど、受付でその姿をちらっと見かけただけですぐにその人だと分かった。ギラギラと輝く目。久しぶりにこんな目の人に出会った。そうか、この人が小池博史さんか。。

この舞台を観て、改めて小池さんがパパタラの解散にあたって書かれている文章の意味が分かる気がした。

しかしながら、現在の舞台状況に限らず、アートシーン全般、日本社会全体がここ10年近く、どんどん小さくなり、自己閉塞化し、作品もまた自家撞着を起こしているような作品が多くなって、非常に居心地が悪い状況になったと感じてきました。
(中略)
私はこうした状況に対し強い危機感を抱いてきましたが、その頂点に達したような状態で、3.11の震災が起きたのです。このタイミングでこの震災。私は人のあり方、アートのあり方を改めて強く問いかける必要をどこかから迫られているのではないか、と思いました。そして、もう一度、向かうべき方角をきちんと確認しなければならないと考えたのです。
http://pappa-tara.com/fes/gaiyo.html

自家撞着。まさにそうだと思う。あまり言いたくないけど、この作品を見てしまうと、今の日本の舞台が(あるいはアートシーン全体が)表層的な表現としても、その裏にある知性の深みという意味でも貧相になってしまっていると思わざるをえなくなる。ただ、だからこそ、そのような状況下においてこそ、もう一度「‘からだ’の重要性と新しい時代を生み出すことの重要性を問いかけたい」という小池さんの思いにはとても共感するし、解散に向けて放たれる4つの演目のひとつに、パパタラ最小規模の作品という「島ーisland」を選ばれたのも分かる気がした。

‘からだ’の可能性を信じること。「表現」の可能性を信用し、語り続けていくこと。それは今、僕自身が抱えているテーマとも重なる。やっと出会うことができたパパタラが解散してしまうのは残念だけど、きっと‘からだ’の可能性の原点を見つめ直した小池さんの表現は、さらなる遠心力を得て、外に向かっていくのだと思う。

今後の小池さんの活動が楽しみ、だけど、まずは「SHIP IN A VIEW」を観ないとな。こちらは27日に行くつもり。

改めて、パパタラを、そしてこの公演を紹介してくれたP.A.I(http://pappa-tara.com/pai/)の斎藤麻生さんには感謝を申し上げたいと思います。ありがとう。楽しかった。