ナジャ/狂った女たち サイマル演劇団

盟友宮地成子が客演するということで、初めてのサイマル演劇団。徹頭徹尾意味不明だったけど、なぜか退屈せずに見れた。

ブルトンの「ナジャ」を底本にした劇作ということで、シュルレアリスムの演劇といってしまえばそれまでなんだろうけど、アフタートークを聞けたおかげで、ほんの少しだけ演出の意図が分かった気がする。

繰り返されていた言葉は「意味」から離れるということ。テキストや身体にまとわりつく社会的あるいは個人史的な「意味」を引きはがし、ただただ舞台に起きる状況としての「演劇」を屹立させること。トークから受け取った演出意図はそのようなものだった。久しぶりに本気で「前衛」をやってる人を観たのかもしれない。

「前衛」という言葉は危険だ。難解であることや実験的であることを否定するつもりはないが、それを免罪符にしつつ内向きな系に閉じこもってる人って結構いて、そういう表現はいつも僕をいらいらさせる(かつて自分がそういう人のひとりであったことを反省しているのです)。この舞台も一歩間違えば、雰囲気だけの、退屈で、内向きな舞台になりかねなかったはず。。。ところが僕は、「ぜんぜんわかんねえや」と言いながらも最後まで楽しくみることができた。楽しくじゃないか。心地よい緊張感を持ってみたという感じかな。

もちろん僕の場合は友人が舞台にいるわけで、自分自身が閉ざされた系の中にいる可能性はある。ほんとうに客観的にさらりとみたら、単にいらいらする演劇であった可能性も否定はできない。しかしこの舞台にはそうした内向きな自己陶酔とは異なる何かがあった。その何かを言語化するのは難しい。難しいがあえて言葉を探せば、「難しげ」なことをやってる人と「本当に難しいこと」をやってる人の差となるだろうか。作演の赤井さんはじめ、役者の皆さんが本気で試行錯誤しているからこそ生まれる緊張感、完成された表現ではないことは自覚しながらも、完成された表現ではないからこそ生まれる何かを探す緊張感がこの舞台にはあった。それが観客席を含む劇場全体に共有されているからこそ、この演劇は不愉快な退屈さから逃れることができていた。

具体的なところでは演出者が舞台の隅にいて、その場で舞台を撮影しつつ、その映像を舞台美術として映写する仕掛けが効いていたと思う。個人的にはその映像が妙にねっとりエロかったことが退屈せずにすんだ大きな理由だったりするのだが(たぶん赤井さんねっとりエロいのでしょう、褒めてます!)、舞台を観察する「目」を二重、三重にすることで言葉や身体が発する「意味」を複層化する仕掛け(フライヤーのイメージに重ねていえば「意味」を分節し、モザイクをかけるといったほうがいいかもしれない)は、観客が安心して受け取ることができる単線的な「意味」から離れるという演劇意図を具体化するためのアイデアなのだろう。生の演技と映像を二重化すること自体はいまどき珍しくもないが、観客のようで、演出者のようで、役者のようで、そのどれでもない不思議な「目」の存在感は、この舞台独特のものだった。

面白い舞台だったかと言われると返答に困る。あまり他の人に薦める気にもならない。しかし僕はきっとまた、彼らの舞台を見にいくと思う。赤井さんの冒険には、なんだかよく分からないけどもっと先まで見てみたい、ご一緒してみたいと思わせる何かがある。