ある精肉店のはなし

手にメシを食わせろ。

映画の中に出てくる言葉。父親に言われたというその言葉の意味について、実際に映画の中で語れること以上の何かを感じました。

舞台は大阪、貝塚市のとある小さな精肉店。北出さん一家は、牛の飼育、屠殺、解体、小売りまでを一貫して手掛けている。映画の冒頭にあるとおり、究極の製販直結。そして映画は、牛の屠殺シーンから始まる。ショッキングな映像でもあるだろう。しかしそこに映し出されるのは、無駄なく、淀みなく進む、「手」の仕事。およそ人の手業をアートと呼ぶならば、これほど完成されたアートも他にあるまい。そう思える、熟達の技。

屠殺は古くから差別の対象となってきた職業だ。しかし私が尊敬する歴史学者網野善彦さんは、13世紀頃までの日本において、屠殺に関わる人たちは、その神聖さゆえ、尊敬の対象であったと指摘している(エタ・ヒニンの非人とは、そもそも神と人間の中間という意味だ)。しかしその非人という言葉が、仏教的倫理観が庶民レベルで浸透するにつれ、蔑視の対象になっていく。その差別が制度化されたのは良く知られるとおり江戸時代のこと。身分制度が変わった明治以降も、屠殺に携わる人、地域は根深い差別の対象となってきた。

しかしこの映画は、そうした不当な差別に対し、声高に怒ってみたり、道徳的啓蒙を施してはいない。その代わり、カメラは北出さん一家が受け継いできた熟達の技に対し、曇りのない尊敬の目を注ぐ。一家の一年に寄り添い、家族ひとりひとりの歴史と今、地域に受け継がれてきた歳時を追うことで、生活の中に息づく知恵=文化を映し出していく。そこで観客のなかに喚起される感情は、尊敬であり、尊敬を超えた何かだ。網野さんが指摘した非人の原義が甦ってくる。そう、纐纈あや監督は、この映画を通し、あの水平社宣言の中でも際立つ明言「吾々がエタであることを誇りうる時」そのものをもたらしている。

北出さんのハンマーは迷いなく牛の脳天を打ち抜く。そこにマッチョな雰囲気はない。あくまでも、しなやかで、柔らかく、洗練された身体の動き。北出さん一家の生き方も同様に、しなやかで、柔らかい。部落解放運動にも積極的に関わってきたという北出さんの口調は、運動家と聞いて僕らが想起しがちな正義感ゆえの頑強さ、あるいは頑迷さとは異なり、驚くほどに柔和だ。時代にあわせ、ある意味したたかに、生き残るためのビジネスモデルを模索し、実践してもいる。しかしそうしたしなやかさの背骨には、自分の「手」に対する絶対の自信がうかがえる。それは机上の原理主義者たちにはぜったいに得ることのできない自信であり、説得力だ。

手にメシを食わせろ。

僕はこの映画をみて、つくづくロハスだのライフスタイルだのという言葉がいやになった(もともと嫌いだからなるべく使わないようにしてるけど)。どちらも原義は別に悪くないのだろうが、そういう言葉を軽薄なマーケティング用語におとしめてしまった人たちは、もう一度この映画を見直して考えるべきだと思う。

人が生きて行くことの中にある本質的な意味のいくつかを、この映画は間違いなく映し出している。