アメリカン・ハッスル

映画はでっぷり太ったクリスチャン・ベイルの腹のどアップから始まる。続いてどこからどうみてもカツラとわかるカツラの装着シーン。それがまた執拗に長い。なるほど、噂に違わぬ役者魂。最初の5分だけで、彼が演じた70年代詐欺師のどこまでも胡散臭く、でもちょっとお茶目なキャラクターが伝わってくる。
主な登場人部は、ベイルを含めて4人。その4人のキャラクターや演技が本当に見事だった。奥さんを演じたジェニファー・ローレンスの色香と狂気。ファム・ファタールエイミー・アダムスの影の濃い美貌。そして彼らを利用しようとするFBI、ブラッドリー・クーパーのいかにも青い感じ。そこにカメオ出演しているデ・ニーロ先生をはじめとする脇役たちの見事な演技も絡みあい、絶妙なセンスの音楽とともに、ぐいぐいとストーリーを動かしていく。
ただ(僕を含む)英語にあまり堪能でない観客には少しばかりつらい映画であることも否定できないだろう。そもそも大きなアクションや、仕掛けで魅せる映画ではなく、ちょっとした会話と表情の変化、さりげなく選ばれているように見えて、かなりそのシーンの「意味」に関わっている(であろう)サウンドトラックの歌詞などで語る映画。台詞量も多く、耳から入ってくる言葉だけでは理解が追いつかない観客は、どうしても字幕で台詞を追うだけで目一杯になってしまう。如何にも意味ありげに使われているサウンドトラックにいたっては歌詞が字幕にされておらず(もともと知ってる曲も多いとはいえ、そうでない曲については)、その歌詞がどのようにストーリーに関わっているのかも理解できない。確かにあの台詞量、歌詞まで字幕にしてしまうとますます「字」を追うだけで終わってしまうとは思うのだが、悲しいことに英語力が落ちまくっている僕は、ああ、おれ、たぶんこの映画の半分も理解できてないな〜という気分になってしまうのである。。。
それでもこの映画がつまらなかったかといえば、まったくもってそんなことはない。同じ日に「ウルフ・オブ・ウォールストリート」を観たこともあるだろうが、この映画に登場する詐欺師たちには、まだなんともいえない愛嬌(あるいはヒューマニズム)のようなものが漂っていて、そこがこの映画の代え難い魅力になっているからだ(対してウルフ・オブの主人公は全くもって非人道的な詐欺師で、しかもそれを道徳的な話に収斂させなかったところが見事なわけですが)。
映画の中心にいる4人はどの人もかなり面倒で、身勝手で、不道徳で、いつも互いを罵りあっている。物語の過程では別れもある。しかしその別れは相手に対する「怒り」や「嫌悪」によるものではあっても「無関心」によるものではない(対するウルフ・オブでは、、、ってそれは別エントリーを立てて書きますね)。禿げあがった太鼓腹の主人公は、なんだかんだいって最後まで愛されているし、他の登場人物も含め、観客もまたある種の共感を持って、彼ら彼女らを受け入れることができるようにつくられている。
この違いは恐らく単なる演技、演出、あるいは監督の趣向の差ではなく、70年代と90年代の社会差でもあるのではなどと勘ぐりたくもなるのだが、まずはとんでもない詐欺師たちを描きながら、どこか温かみが残る群像劇を仕上げきった監督の手腕を褒め称えたいと思う。そして、その監督の意図を汲み取りつつ、魅力的な人物を演じきってみせた役者の皆さまにも惜しみない拍手を送りたい。
お見事でした。