HHhH(プラハ、1942年)

小説とは何なのか?

背表紙の帯に書かれたコピーが突き刺さる。まさにそのコピーにあるとおり、この書物(同じく帯にあるマリオ・バルガス・リョサと同じく、僕もこの本を前置きなく「小説」と呼ぶことには抵抗があり、ここではあえて「書物」としておく)は、まったく新しい語りの技法で綴られている。

題材はナチス、ハイドリヒの暗殺計画である。1942年のプラハ。イギリスのチェコ亡命政府から派遣された若きパラシュート部隊の2人が「金髪の野獣」と称されたナチスの高官、ハイドリヒの暗殺に至るまでの過程およびその後。いやがおうにもドラマティックなその「物語」を、作者であるローラン・ビネはいわゆる「歴史小説」とも「ノンフィクション」とも異なる、新たな技法で紡ぎだす。

ローラン・ビネは、これまでのいかなる「歴史小説」もが避けえなかった推測や憶測、作者の都合による登場人物や事件に対する脚色を徹底的に取り除こうとする。ハイドリヒのメルセデスは黒だったのか、緑だったのか。読んでいる私たちからすればそんなことどちらでもと思うのだが、偏執的に「事実」を綴ることにこだわるビネは、その色の違いが気になってしかたない。会話のひとつひとつ、登場人物たちの行動のひとつひとつが、膨大な資料によって厳密に検証されていく。

といってこの書物が純然たる学術書やノンフィクションにあたるかというと、決してそんなこともない。不思議なことに、この書物の読み味は、小説ならではの(ある意味では手前勝手な)「想像力」を忌避しながら、同時にまた、どこまでも「小説的」なのだ。

その語り口は、巻末な解説にあるとおり、カポーティの「冷血」やミラン・クンデラを想起させるところがある。しかし本書内でくしくもビネ自身が「クンデラはもっと先までいけたはずだ」と言うとおり、本書はさらにその先を目指す。革新的でありながらもその素養により「小説」という伝統的作法の範囲内に踏みとどまったクンデラカポーティと異なり、ビネは自分自身の葛藤や逡巡を遠慮仮借なく物語に編み込んで行く。先の章で語らせたハイドリヒの言葉は「本物」といえるだろうか。そこに自分の想像(創造のほうがいいかな)が入り込んでいないだろうか。自分の書き方、語り方はこれでいいのだろうか。

その逡巡をともにするうちに、知らず知らず僕たち読者もまた、1942年5月27日のあのとき、美しいプラハの街角、あのヘアピンカーブでついにハイドリヒと二人の若者が相対するあの瞬間に至るまでのビネの旅に同行してしまっている。そしてそのときその瞬間の場面に出会う僕たちはまさに、「小説的」としかいいようのない、深い感動を味わう。

小説とは何なのか。

思うにこれは、ハイドリヒという傑出した怪物、そしてその怪物を倒した二人のチェコの若者たちに出会うビネ自身を主人公にした、新たなスタイルの私小説なのだ。ビネは、資料の海をさまよい、歴史を物語る行為そのものを、自らの物語として呈示してみせる。そしてビネはいう。この物語は終わらないと。

徹底的に抑制した想像力を解放するかのように綴られる最終章は感動的だった。「そして、たぶん僕もそこにいる」。あまりにも鮮やかなそのラストに心からの賞賛と祝福を送りたい。

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)