マッドマックスについて

最初に見た時はひたすらに圧倒されて「ショージ・ミラーありがとう!!」みたいな感想しか出てこなかった。その後、劇場で4回みて、パンフレットもメイキング本も買って、隅から隅まで読んで、過去の3作のトリロジーパックも買って、久しぶりに観たけどやっぱり2までは大傑作だよな〜(サンダードームはもにょもにょ)ってなって、ついでにサントラも買って、移動中はこのサントラか、タマフルの素晴らしい特集放課後ポッドキャストのどちらかを聞き続けて、朝から晩まで暇さえあればtwitterで「マッドマックス」を検索するという。これほどひとつの映画に夢中になったのは、中学のときのナウシカ以来じゃないだろうか。というかこの映画、思えば思うほどにナウシカとは共通点が多いように思う。間口の広い、エンターテインメントな語り口のなかに、細部の細部まで考え抜かれた設定が埋め込まれ。社会とは何か、人の尊厳とは何かを問いかける。高橋ヨシキさんじゃないけど、僕はこの映画に自分の人生のなかで出会えたことが本当に嬉しい。自分の熱量がまったく落ちてないことに驚愕しながら、これまでに考えているマッドマックスのすごいところを、少しだけ(いや相当しつこくなると思うけど)書き留めておきたい。


●映画として
この映画の素晴らしさについて一番最初に思うのは、アクションで全てを語るということ。これには、ストーリーボードを使った脚本づくりが大きく影響しているという。メイキング本を見ると、この映画は、最初から「絵」で語ることを意識していたことがはっきりとわかる。そして僕は、ここでも中学生のときに買ったナウシカの絵コンテ集を思い出してしまう。あの絵コンテは、ある意味で僕のその後にものすごく影響を与えている。ここで初めてナウシカの目がアップになる、ここの目線がとても大事。ほとんど仕上がりの映画そのままのコンテのなかに書きこまれている宮崎駿の意図。ああ、映像というのはここまで考えてつくるものなのか。当時の僕はその徹底的な思考の痕跡としての絵コンテを夢中で読み込んだ。考え抜くことの大切さを、僕はあの絵コンテから学んだ。
思えば私の大師匠も、いつも絵を描くことにこだわる人だった。文章はなんとかなっても絵は本当に自分がやりたいことを理解していない限り描けない。それが大師匠の口癖だった。その教えは、いまも自分のなかに残っている。そう、ぼんやりしたビジョンといった程度のイメージでは絵は描けないのだ。絵にすることは理解への試金石だ。マッドマッックスは、その初期段階から「絵」にこだわることで、美術、衣装、演出、演技、撮影、そして編集に至るまで、その全ての段階に驚異的な統一感を生み出している。
結果として、マッドマックスはサイレント映画と比較されるほどに、ビジュアルだけで語れてしまう映画になった。その語り口は、伝統的な「映画」の話法への回帰であるとともに、映像表現の革命であって、「映画」というメディアの可能性はいまもまだ飽和状態にないことを見事に証明してみせている。


●社会とは何か
そしてマッドマックスでは、舞台の背景となる社会のありようが徹底的に考え抜かれている。幾多あるポストアポカリプス映画のなかでも、その社会のありようをこれほど徹底的に考えた映画は他にないのではないか。大変話題になった「水耕栽培農家の視点からみる『マッドマックス 怒りのデスロード』も面白かったし、もっとも貴重な資源として「水」に着目したことの鋭さ、ワイブスの部屋にある遊具や本の意味、宗教による支配が示すメタファーなどなど、いくらでも語る要素はあるのだが、ここではシタデル(砦)のあり方、イモータン・ジョーの統治システムの説得力の基礎となっている三角形のことだけを書く。
シタデルは3本の塔から成り立っている。そこでは、水という資源と、それを活用するための耕作、そして武力の絶妙なバランスを象徴している。またイモータン・ジョーがすべての資源を独占するのではなく、バレットファーム、ガスタウンとのゆるやかな同盟関係によって、その権力を維持しているのも興味深い。このように、マッドマックスではあらゆる社会システムや人間関係のなかに大小の三角形が織り込まれている。それが物語の深みとリアリティに多いに貢献しいてる。実は実際の社会システムのなかでも「3」という数字は頻繁に活用されている。一番わかりやすところでは三権分立とか三本の矢とかがそうだけど、経済学や社会学でも「3」あるいは「三角形」をモチーフとした研究はたくさんあるんですね。「三角形」がもつ不思議な安定性と伸縮性。それをフラクタルに埋め込んでいくことで、マッドマックスは善悪の二項対立から逃避するばかりでなく、この劇画的な世界に現実社会のリアリティを持ち込むことに成功していると思う。そしてこの三角形という構図は、マッドマックスのなかのさまざまなアクションシーンにも応用されている。


●人とは何か
そして何より、そうした映像表現、社会背景のなかで、この映画が伝えているテーマの深みに震撼する。観る回数が増えるたび、人として生きることは何か、人間の尊厳とは何か、名前を取り戻すとはどういう意味なのか、この映画が突きつけるテーマが胸に迫ってくる。
もちろんこの映画の白眉であるニュークスの成長(あのクライマックスはさー、何度見ても泣き腫らすよね)も素晴らしいのだが、やっぱり僕は、マックスに逃走の理由を問われたフュリオサが絞りだすように言う「redemption」という言葉について考えてしまう。これについては、「水に流す」という日本的な思考と比較したこのプログがとても面白かった。そう、「贖い」という概念は、実は日本人にとっては飲み込み難い深みがある。
興味がある人はぜひ、wikipediaの「償還(神学)」のページも読んでみてほしい。これを読むと、「redemption」という言葉が旧約聖書の『出エジプト記』に出てくることがわかる。そして改めてあの砂嵐のシーンがモーセの「海割れ」であることに気づかされる。この映画が描く長い長いチェイス、特にその前半の下敷きが『出エジプト記』にあることは明らかだろう。モーセとしてのフュリオサ、ファラオとしてのイモータン。かつてファラオ(イモータン)によって深く傷つけられ、自らもまた幾多の罪を背負ったであろうモーセ(フュリオサ)は、その全身全霊をかけ、「redemption」=「贖罪」を果たす。それは復讐であると同時に、赦しでもある。イモータンの最期を描くとき、フュリオサがたった一言「remember me」と言う。その一言の凄みたるや!!映画では語られない背景の物語を澄み切った目線だけで表現してみせたシャーリーズ・セロンには、改めて、心の底からの拍手を捧げたい。


●神話として
この映画が「神話」であることは誰もが指摘する通りだろう。そして神話であるということは、どこかに「語り手」がいるということだ。僕は最近、この「語り手」は誰かということを考えるのが楽しくて仕方ない。それは帰還後のシタデル(砦)がどのようになったかという妄想といやがおうにも結びつく。もちろん、半分冗談としてもよく言われる、ぎりぎり保たれていた「秩序」が崩壊し、よりひどい世界が到来する可能性もあるだろう。しかし僕は、ちょっとしたロマンチシズムも含め、帰還したワイブスのうちの誰か(あるいは全員)が、フュリオサとともに、よりましな、人間的な世界を築いたと信じたい。そしてこれはまったく根拠に欠けるのだが、この英雄譚、フュリオサとマックスの英雄譚を語り継いでいるとしたら、それはトーストなのではないかと思う。それはたぶん、トーストのどこかに、あのマッドマックス2の子供の面影を見るからだろう。


まだまだ語りたいことはたくさんある。もちろん、あの車がかっけえとか、ポールを使ったアクションがバカすぎてかっこよすぎてもう最高とか、武器将軍のオペラとか、乳首のあいつの最低っぷりとか、そしてもちろんニュークスが愛おしくてたまらんとか、あの映画のためにウーファーを買い足した立川シネマシティ最高!!とか、いくらでもしゃべてっていられる。もうほんとにきりがないので、改めてこれだけは言わせてもらいたい。この映画をリアルタイムで観ることができて、僕は本当に幸せです。4度目の鑑賞はシネマシティの最前列だったんだけど、僕はもう幸せすぎて、ほんとにもうこの瞬間に人生が終わってもいい、死んでもいいとか思ってしまいました。何度でも何度でも見たいけど、もう危険なのでここでやめておきます(円盤でたらもちろん買うけどな)。もしまだ未見の人がいたら、ぜひとも劇場で、この映画を体験してもらいたいと思います。そして僕と一緒に叫ぼう。V8! V8!