牡蠣工場

シアター・イメージフォーラムにて。想田さんの観察映画は(たぶん)「演劇」以外は見てると思う。リサーチなし、脚本なし。予断を配して、観察する。今回もその流儀は健在。

舞台となるのは瀬戸内海の漁村。牡蠣工場で日々繰り返される手仕事。観察映画の元祖、ともいえるフレデリック・ワイズマンの「肉」を思い出す。食品加工の現場はおそらく「観察」に向いているのだろう。私たちがよく知っている食品ができあがるまでの、私たちがあまり知ることのない工程のひとつひとつに、好奇心いっぱいのカメラが迫る。そしてまるで偶然であるかのように、カメラはカレンダーに書き込まれた文字を発見する。「中国くる」。

今回の映画で想田さんが出会ったのは、田舎町に入り込むグローバリズムだった。後継者不足に悩む牡蠣工場に送り込まれてくる中国人労働者たち。ぎくしゃくとしたコミュニケーションの現場、現実に(例によって)遠慮のない想田さんのカメラが迫っていく。

想田さんの撮影の特徴は、カメラごと被写体にぐぐっと寄っていくアングルにある。「選挙」のときからそうだったけど、今回は特に「寄り」が多い気がした。慣れない外国人とのコミュニケーションに戸惑う人たちにぐいぐい寄るカメラ。その遠慮のない「寄り」はなかば暴力的でもあり、おそらくは被写体にとっては相当に不愉快な所作でもあるだろう。今回は「観察」の対象が政治家などの(ある種)の特権者ではなく、普通の田舎町の、どちらかといえば純朴ともいえる人たちであることもあり、カメラが持つ暴力性がこれまで以上に際立って見えた気がする。

しかしその不愉快なカメラが捉えた愉快とは言い難いコミュニケーションは、当然のことながら現在進行形の日本の現実なのであり、この瀬戸内海の小さな漁村だけでなく、全国津々浦々に広がりつつある新たな「日常」でもあるのだろう。私たちは個々人の名前を覚えるより先に「チャイナ」としてくくってしまうような雑さを克服できるのか。この産業は、コミュニティは持続可能なものなのか。いつものことながら、考えさせられることの多い「観察」だった。