リリーのすべて

僕には年に何本か、みんなが絶賛しているけど、自分は好きになれない!って映画があって、今年はたぶんこの映画がそれにあたってしまうようだ。いやもちろん、綺麗な映画だってことはわかります。エディ・レッドメインアリシア・ヴィキャンデル、二人の主演者の演技も素晴らしいのでしょう。しかし僕はどうしてもこの映画は好きになれそうにありません。

まずはトランスジェンダーに対する視線が好きじゃない。実話をベースにしているのだから、実際のアイナー(リリー)と、その妻であるゲルダがどういう人だったのか知っていうべきなのかもしれないが(つまりは僕は実際の二人がどういう二人だったのかは知らないのだが)、少なくとも僕には、この映画におけるアイナー(リリー)は、本来の自分の性(あるいはアイナーのなかにいるもうひとりの人格としてのリリー)に回帰しようと苦悩する存在であると同時に、ひたすらに自分の欲求だけを満たそうとしている、ある意味で幼児退行している人に見えたし、ゲルダの愛は、そんな幼児化していく夫を母性的な愛で包み込む存在に見えた。極端に言ってしまえばアイナー(リリー)のトランスジェンダーをひとつの輝ける個性というよりは、迷い込んでしまった迷宮というか、一種の病としてみているように感じてしまったのだ。アイナーがリリーという(彼にとっての)本来の性、あるいはもうひとつの人格に戻ろうとしていく過程で「創作」に対する情熱を失ってしまうのも違和感があった。絵を描くことよりもいつか子供を孕むことを夢見る。それはそれでひとつの生き方だし、否定されるべきことでもないだろう。時代を考えると当然のことなのかもしれない。それにしてもアイナー(リリー)のなかにある「女性であること」に関する価値観のステロタイプに僕は共感しにくい。

仮にそれが私の読解力不足、トランスジェンダーに対する理解不足であったとして、それでもこの映画のトーン。トランスジェンダーであることを一種の悲劇と捉え、それをいかにも悲劇調に演出してみせるところは好みとは言い難い。繊細な演出という評価を見かけるけど、この映画は僕には悪い意味で大仰にみえる。マイノリティであることを悲劇とし、そのまま悲劇として演出する。そのトーンに、強い違和感、あるいは見下されているような感覚を覚えてしまう。性的マイノリティはかわいそうな人たちだと言いたいのかね、と。。。

この違和感には覚えがあると思って記憶を辿ると、是枝監督の「空気人形」を思い出した。あの時も「人形」に恋をしてしまう主人公が無意識に見下されているような気分になって、強い違和感を感じたのだった。ひょっとすると、トム・フーバーには、僕が是枝監督のなかの僕の苦手な成分がたっぷり入っているのかもしれない。

「空気人形」のときも、普段は趣味があう、いやそれはおこがましいな、むしろ私に映画の見方を教えてくれた存在である映画秘宝の面々が軒並み高く評価していて、自分とは意見が違うことにちょっとした不安を感じたものだ。今回もfilmarksでは高い評価が並んでいて、自分だけが何か大きな勘違いをしているのかな〜と思ったりもする。でもね、たまには意見が分かれるほうが正常ですよね笑。

むしろこの映画がすっげえ好き!って人と話してみたいので、ぜひみなさんも劇場で見ていただければと思います。