トランボ ハリウッドに最も嫌われた男

久しぶりの映画館。行く習慣が途絶えると途端にね、、、反省反省。

映画はとても面白かった。全盛期と呼ばれる40年代を過ぎ、テレビの普及により興行としても産業としても行き詰まりを見せはじめていた50年代のハリウッド。時同じくして巻き起こった「赤狩り」。その犠牲となったハリウッド・テンのひとり、天才脚本家、ダルトン・トランボの物語。

主人公トランボを演じたブライアン・クランストンをはじめ、役者陣はみな迫真の演技。娘役のエル・ファニングは相変わらずかわいいし、適役のヘレン・ミレンも圧巻。「あの」トランボを扱う映画の「脚本」をまかされたジョン・マクラマナはすさまじいプレッシャーだったのではと推察するが、監督ジェイ・ローチの抑制の効いた演出も相まって、とても良い仕上がりになっていたと思う。

ベトナム戦争という決定的な「敗北」に向かって長い斜陽の季節を迎えていた当時のアメリカの姿は、当然のことながら現在の日本や世界を連想させる。「赤狩り」の主舞台となった下院非米活動委員会。映画界でその活動に同調し、密告と告発を扇動した「アメリカの理想を守るための映画同盟」。その論調に熱狂的に同調した国民たち。それはおそらく、共産主義への恐怖というよりは、傷ついた自尊心の救済運動(小熊英二が指摘するところの「癒し」)だったのだろう。アメリカにおけるトランプの大統領候補指名、イギリスのEU離脱。世界中で「赤狩り」の当時を連想させる「ナショナリズムへの転落」が顕在化しつつあるのは周知のとおり。そして日本でも、自民党憲法草案に明文化されているとおり、表現規制、あるいは人権そのものの規制に対する欲求が顕在化しつつあり、それに同調する表現者も現れはじめている。誰の目にも明らかなとおり、日本もまた、いままさに長い斜陽の道にある。

そんな時代、仕事を失ったトランボはいかにして戦ったか。彼は作り続けることを選択した。トランボの新たな支援者(というか単なる発注者)となったのは、金と女が大好きだと公言してはばからないB級映画プロデューサーだ。彼には「癒し」としてのナショナリズムなど必要ない(そもそもそういう自尊心が存在しない)。まさに資本主義の申し子として、肥えた腹をぶるんぶるん震わせながら、金と女に、その源になる面白い映画づくりに猛進する。彼にとってはトランボの思想などどうでもいい。トランボには面白い脚本をつくる才能がある。だから発注する。映画をつくる。儲ける。実にシンプルだ。そしてトランボもまた、そんなシンプルな彼の動機に歩調をあわせ、書いて書いて書きまくる。

対して、そうした世俗性に反発する仕事仲間もいる。トランボは(それこそ共産主義の良い部分を取り入れて)ともに告発された仲間たちと仕事を「シェア」しようとする(彼にとっての共産主義は助け合う社会という以上の意味をもたないのだろう)。しかし高潔な理想に燃える仲間は、トランボの世俗性を受け入れることができない。結果として彼は、自らの理想に埋没するあまり、作品をつくれなくなってしまう。

マッカーシー率いる非米活動委員会は、容疑者たちに「yes or no」をつきつけることで熱狂を生み出した(議論を単純化させるのはいつの時代もナショナリストの常套手段だ)。前述の同僚は、自らの理想を追求するがゆえに作品をつくれなくなってしまう(インテリが言い訳を繰り返しながらだまりこむのもいつの時代にも共通している)。実は彼らは、自分の「正義」に拘泥しているという点では同類項なのだろう。

対してトランボは、作り続けることで戦った。

この映画の製作者たちが示しているビジョンは実にシンプルだ。映画人の仕事はなんといっても「面白い映画をつくること」なのだ。何かあっても、どんな世の中であっても、どんな条件であっても作る。独善に陥らず、プロフェッショナルとして、面白い映画を作り続ける。それだけが映画人の誠実であり、その誠実さこそが実際に世の中を変えうるのだ(そうした意味で僕はこの映画に最もよく似た映画としてまっさきに宮崎駿の「風立ちぬ」を思いだす)。

家族を犠牲にしながら仕事に猛進するトランボの姿は痛々しくもある(ぎりぎりのところでちゃんと家族を省みるあたりは「風立ちぬ」の主人公よりはマシだともいえるが・・・)。アンフェタミンをがぶ飲みしながら書き続けるトランボは、決して褒めらられた人間ではないのかもしれない。しかしその仕事にかける熱量は、間違いなく今のハリウッド人たちにも受け継がれている。そう、この映画の製作者たちもまた、トランボなのだ。

うんざりするような世の中でも作り続けること。その価値を伝えてくれる映画です。