アイ・イン・ザ・スカイ

新年2発目はこちら。こちらはうって変わってドスンと重たい映画でした。

簡単にいえば大昔からある倫理問題、いわゆるトロッコ問題のドローン戦争版なのだが、軍人、政治家、それぞれの立場の拮抗のさせ方がほんとうに巧みで、考え抜かれている。どちらの立場にも組みすることなく、ドローンという一種の非対称な兵器がもたらす新しい時代の戦争の傷を見事に描いていると思う。

いわゆる責任を取りたがらない会議室映画といえば「シン・ゴジラ」が思い出されるのだが、僕は「シン・ゴジラ」よりこちらのほうがはるかに「現実」を捉えていると思う。厳しい映画になっていると思う。「シン・ゴジラ」をディスると敵をつくりがちなのだが、僕はどうしてもあの映画に納得できないところがあって、それは会議をやるばかりで何も決めることができない政治を批判するのはいいとして、そうした状況が若くて実行力のあるリーダーという、一種の「ファンタジー」によって解決されてしまうことだ。穿ち過ぎかもしれないが、それはドナルド・トランプを待ち望む心理と大差ないように思えてしまう。

対してこの映画では、それぞれの立場(あるいは事情)をより深く読み込んでいる。


【ここからネタバレありまくり注意!】

舞台はソマリア。イギリス、アメリカそしてケニアの連合軍のドローンが、重要手配犯たちがまさに自爆テロを準備している現場を捉える。無人機からのミサイル攻撃により、テロリストの排除(つまりは殺害だ)は可能な状況。しかしそばにはパン売りの少女がいる。ミサイルを撃てば少女も巻き添いを食う可能性が高い。80名の失われる(かもしれない)命を守るため、ひとりの少女を犠牲にすることは許されるのか。

軍人である主人公の女性大佐は国民を守ることが仕事だ。自国民を何度も攻撃してきたテロリスト、6年にわたって追い続けてきたテロの首謀者たちが目の前にいる。いま攻撃すれば国民を守れる。そのチャンスに決断できない会議室(シビリアン・コントロール)に苛立つ。
会議室では、大佐の上官である中将が攻撃許可するよう政治家たちに要請している。私の理解力不足でなんの役職かわからなかったのだが、いかにもリベラルな女性政治家が、パン売りの少女を守るために(ではなく実際には少女がいながら攻撃したことでイギリス政府、あるいは自分自身が批判されることを避けるために!たとえ自国民の命が奪われる結果となってもテロリストとのプロパガンダ合戦には勝てるという打算のために!!)攻撃に反対している。テロリストとはいえ、イギリスあるいはアメリカのパスポートを持つ容疑者を殺すことを逡巡する法務担当。そんなん気にするな、チャンスがあるならさっさと殺せといってくるアメリカ(いかにもですねえ!)、たらい回しにされる意思決定。会議室内で決定権をもつ閣外大臣は対立する意見のなかでなんとか「決断」から逃れようとする。しかし最高責任者である首相までもが曖昧な、どうとでもとれる回答をよこし、とうとう。。。こうした登場人物ひとりひとりに、ある種の正当性があり、同時に俗悪さもあることがキリキリと示されていく。

もうひとつ大事なことは、この映画が会議室や司令部の逡巡を描きつつ、「現場」を担う人たちの痛みを忘れていないことだ。アメリカではドローン操縦士のPTSDが多発し、社会問題になっていると聞く。この映画を観るとその理由がはっきりとわかる。ドローンには見えすぎているのだ。自らが引き金を引くことの意味が。それが招く悲劇が。圧倒的な技術の非対称性がもたらす新たなトラウマ。。。

そしてさらにこの映画は、こうした逡巡やトラウマの末の行動が、結果として何を奪うのかも突きつけている。私にはパン売りの少女が「この世界の片隅に」の晴美さんに重なって見えて仕方なかった。大切なものを失った両親はこれまでと同じように暮らせるだろうか。あるいは彼もまた、「欧米」との戦いに身を投じていくのだろうか。そもそものテロの原因を考察することなく西側の人間の苦悩ばかりを描いているという批判は可能なのかもしれないが、私としては、あの笑顔を、あの場所にインサートしたことで、ギャビン・フッド監督の意志はしっかり伝わっているのではないかと思う。

大変に厳しい映画だった。一連の攻防に関わった全ての人が(もっとも自分の目的を達成しえたはずの大佐でさえ)人とって大切な何かを失ってしまったことが静かに示されるエピローグ。その喪失感の凄まじさ。この映画の実現に努力したというコリン・ファースに感謝したい。