沈黙 サイレンス

マーティン・スコセッシ渾身の一作。どすんと重量級。巨匠の風格あふれる映画でした。

遠藤周作の原作は残念ながら未読。ゆえに一度映画を見ただけでとこまでこの複雑な話を読み取れているか自信がありませんが、自分なりに感じたことをメモしておこうかと。

まずは私自身の信仰心というか宗教観はといえば、人が宗教を求めること、宗教が幾多の美しい芸術を生み出してきたことは理解しつつ、宗教が人を幸せにするとは思えないし、特に一神教が陥りがちな非寛容性は世界を不幸にする可能性が高すぎるし、万物は神が創造したみたいな与太話をどうやって信じるの?とか思ってしまう近代合理主義者なものでして、実は映画を観る前は宗教の話、なかでもキリスト教の話は俺にはよくわかんね、という気持ちが強かったわけです。がしかし、実際に映画を見てみると、予想をはるかに超えて揺さぶられてしまう。

もちろんやっぱり宗教は人を幸せにしないじゃないかとは思う。弾圧者としてのイノウエサマたちがやってることは確かにひどいんだけど、キリスト教の矛盾を指摘する言説自体は合理的なものだし、それに対抗するロゴリゴの言説もイノウエサマと同じぐらい独善的だと思う。というか近代的価値観からいえば、むしろイノウエサマたちに分があるようにさえ思える。しかしロドリゴにはロドリゴが信じる価値観があることも理解できるし、それ以上に、何度も何度も裏切りながらどうしてもキリスト教(というか信仰そのもの)を必要とするキチジロウの切実さに胸が痛くなる。沼地としての日本。バリエーション豊かな拷問。そして何より、ひとりひとりの登場人物たちのリアルさに圧倒されながら、これはキリスト教が正しいとか正しくないとか、あるいはそれを受容しなかった日本が正しいとか正しくないとか、そんな映画じゃないんじゃないかと考える。いや、そんなことはもちろん事前に予想してたんだけど(なにせスコセッシだし)、それにしてもスコセッシは何を描こうとしたのか。その骨がどこにあるのか。どうしても自分だけではとても読み解ききれない。。。

というわけでここで筆を止め、町山さんの解説を聞いてみた。なるほど。これは弱き人、ユダの名誉を回復するための映画だったのか。

遠藤周作が原作で示した弱者への思いを、自らもまた弱い人間であるスコセッシが見事に蘇らせた。原作だけではなしえなかった救済を、人の人生を疑似体験させる「映画」の力で、ついにやり遂げることができた。これまで「裏切り者」とされていたロゴリゴたちは、300年以上の時を経て、ついに救済された。映画愛あふれる町山さんならではの読み解きだし、この解説を聞いてようやく僕は、この映画の主題が腑に落ちた。

そう。この映画のなかで最も印象的なキャラクターがキチジロウであることは当然のことなのだ。スコセッシは、ロゴリコとともに、あるいはロドリコ以上に、遠藤周作が(自らの分身として)描いたキチジロウに魅了されたのではないか。そして救いがたく救いのないキチジロウをこそ、他のなにものでもない「映画」の力で救おうとしたのではないだろうか。なぜならスコセッシもまたキチジロウなのであり、キチジロウの救済はスコセッシ自身の救済であり、それは映画そのものの救済でもあるのだから。

そう思うと、この映画は自らを救ってくれた「映画」という芸術に対するスコセッシからの感謝状であるかのようにも思えてくる。スコセッシが師匠であるエリア・カザン赤狩りに協力したハリウッドの裏切り者)の名誉回復に貢献したという話も(恥ずかしながら)初めて知ることができた。そして僕は、スコセッシの映画がなぜこんなに自分に響くのか、ようやく理解できた気がする。町山さんの解説を引くばかりで何ら自分の意見がない感想になってしまったのだが、いまはただ、この映画を観れたこと、そして町山さんの解説を聞けたことに感謝したい。もう一度見ようかな。