荒木経惟 センチメンタルな旅

いわずとしれた荒木経惟の名写真集「センチメンタルな旅」を下敷きにした展覧会。これがもう、なんというのだろう。めっちゃ良かった。

露骨に泣かせにきてる構成で、でもまんまと泣かされて、文字通り、センチメンタル。写真集で知ってるはずの写真なんだけど、やっぱり生のプリントは違う。なかでも陽子の死期がせまるなか、一時退院したときに取られた料理の写真はすごかった。艶かしい。とてつもなく艶かしく、むごたらしい、生(性)への活力。そしてその後に続く、冬の旅。日付が進むごとに涙があふれてきてしまう。荒木の愛に、共振してしまう。

しかしなぜ荒木の写真はこれほどまでに見るものの胸をうつのか。普段ならエキセントリックな言動や過激な描写うんぬんより、むしろカメラに関する正確な知識に基づいた卓越した技術に着目すべき、などと書きたくなるところなのだが、このところ、いわゆるアートフェスティバル、地域アートと呼ばれるものへの違和感が募っていることもあり、今回は「アート」に対する真剣さ、切実さというような、やや精神的なベクトルのことが気になった。

荒木が「センチメンタルな旅」の序文で「にせものばっかり」と糾弾したアート、芸術の状況はいまも変わらいどころか、ますますもって退色しているかのようにも思える。全国各地で展開されるアートフェスティアルに並ぶ、見た目麗しい、しかし毒にも薬にもならない作品群。いやもちろん、現代にも刺激的な、優れた作品はあるのだが、それにしても。。。

クライアントの要求や期待に応えることは決して悪いことではない。それは当然そうだしアートが地域の活性化に役立つことも基本的には良いことだと思う。しかしたんに「こなす」だけの仕事になってしまっては、それはアートとは言い難いのではないか。何を真剣に想うのか。伝えるのか。自分の仕事を省みつつ、器用なだけのプランナーにはなりたくないなと、改めて青臭く考えた。同時開催されている「エクスパンデット・シネマ」で取り上げられている松本俊夫とかもそうだけど、60年代アバンギャルドを牽引した人たちの過激さ、真剣さが、いまもなお強烈にかっこいい。

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