ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」

僕にはひっそりと実は未読だったりする本がたくさんある。いわゆる「こっち側」の人の多くが読んでるのに、実はまだ読めていない本。ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」もそうした本のひとつで、morieさんの推薦がなければ、そのまま読まずにいたのかもしれない。なんと勿体ないことをしていたのか!!

小説はニーチェの「永劫回帰」に関する論考からはじまる。
「もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとして現れうるのである。
 だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?」
「確かなことはただ一つ、重さ―軽さという対立はあらゆる対立の中でもっともミステリアスで、もっとも多義的だということである」

この小説では、筆者が優れた観察者となり、登場人物たちを見つめている。それぞれに「重さ」と「軽さ」を抱える三人の男女。そしてその三人の物語(行動や言動)が語られる合間合間に、それぞれの行動や言動に関する哲学的論考がはさみこまれる。「物語」と「論考」がポリフォニックに響きあう。小説として難解なわけではない。むしろストーリーのテンポなどを考えれば読みやすい小説とさえいえる。しかし小説全体にいきわたる「人」に対する思考の分厚さ、深さは驚異的だ。

「小説」の役割が(文字通りの「人文科学」として)「人」を科学することにあるとすれば、これほど直裁的に「小説」である小説も珍しいのではないか。幾多の女をわたり歩くトマーシュ。5つの偶然を経てトマーシュのもとに辿り着いた田舎女テレザ。そして天才であるがゆえに、その感受性の強さゆえに、いつも寂しさとともにある女性画家サビナ。三人三様の生き方。愛し方。一人の人物の中にある多義性。そして多義的な人と人が出会うときに起こる化学反応の複雑さ。優れた観察者としてのクンデラの筆致は冴えわたる。しかも恐ろしいことに、それだけ深く鋭く掘り下げてなお、読者自身が考える余地が充分に残されている。これこそが読書の楽しみ。小説の楽しみ。おそらくこの本は、読み返すたび、僕に全く違う印象を与えてくれるはず・・・

とりあえず初読となる今回。最も印象に残ったのは第三章の「理解されなかった言葉」だった。この章に登場するフランツの「分かってなさ」っぷりには思わず悶絶した。間違った真面目さ。間違った優しさ。そして、まるで信仰のような、サビナへの愛。身に覚えがありすぎる。苦しすぎる。

あとはやっぱり最終章。実はこの部分は奈良に向かう近鉄電車の中で読んだ。このまま読めば仕事場に真っ赤な目で行くことになるのは分かってた。それでも読んでしまった。「軽さと重さ」「心と体」「幸福と悲しみ」そして「強さと弱さ」。自らを苦しめてきた二項対立に新たな意味を見出しはじめるテレザ。素晴らしく美しいダンスシーン。トマーシュに語りかけるテレザ。そしてトマーシュの「あの」最後の台詞。もう予想通り、というか予想以上に涙腺決壊。号泣メーン。号泣メーーーン。

「究極の恋愛小説」のふれこみは嘘じゃなかった。扇情的な表現を排しつつどこまでも豊かな詩情あふれる傑作。生きていくことは耐えがたいほどに重く、軽く、美しい。

morieさんによれば映画も面白いとのこと。ぜひ観てみたいな。