リアリティのダンス

まさにリアリティが踊る映画だった。

中南米文学でおなじみのマジックリアリズムとフランス的な前衛の精神が融合し、現実が踊りだす。冒頭から明らかな拝金主義への嫌悪。日本人にとっては寺山を連想するようなサーカス小屋の残酷さと美しさ。ウクライナ商会とまちの喧噪の禍々しさ。冗談のように厳格な父。これまた冗談のように豊満な母。全てが騒々しく、幻想的で、かつ生々しい。

70年代カルト映画的といってしまえばそれはその通り。超現実的な映像にさまざまな暗喩をちりばめる手法からは、アメリカン・ニューシネマの香りが濃厚に漂う。しかしもちろん、この映画は只の懐古趣味の映画ではない。

ホドロフスキーは自ら語るとおり、自らを再生するために、この映画を撮っている。その行為はある意味で自慰的なものであるかもしれない。ひたすらに自分、自分、自分。しかしその徹底的なまでの自分と自分の「生」に対する執着が、普遍的な感動を生みだしてしまう。これほどまでに「生」への強い欲望を感じさせる映画がいまどれだけあるだろう。僕はやはり、この時代に、この映画に出会えることに、感慨を禁じ得ない。

「エル・ポト」や「ホーリー・マウンテン」を知らない世代がこの映画をどう見るのか、とても興味がある。「ホドロフスキーのDUNE」と同時に観れば伝わると思うのだが、、、さて。