表現の不自由展・その後

大村記事が中止を発表した直後に書き始めて翌日に手直してfacebookにアップした記事なので多少タイムラグありますが、、、こちらにも記録として残しておく。

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えっと、ほんとは見たうえで色々言いたかったけど、見てないからという理由で何も言わない事案でもなかろうということで簡単に。

まず私は大村知事による中止の判断に賛同します。観客の安全は何よりも大切だし、アート関連事業の現場にいる自分には、警察の協力も期待できないような状況で、膨大な苦情、恫喝、脅迫等々の現実の恐怖に晒されているATの現場に向かって「もっと戦え」とは言えないし、言いたくもない。行政が展覧会の内容にコミットすべきではないという態度を堅持したことも立派だと思う。

改めて「あいちトリエンナーレ2019」のコンセプトを読んでみると、書き出しから「政治は可能性の芸術である」というビスマルクの言葉が引用されていて、芸術監督・津田さんの関心が現在の政治的、社会的課題に向かっていることは明らかだと思います。そのことについて、そもそも芸術祭が政治的であることが不愉快だ(芸術が政治に利用されている!)と感じる芸術関係者もいると思いますが、私は完全に政治性から切り離された表現はありえないと思っているし、観光集客のために誰もが楽しめる作品を集めました!みたいなご当地PR型のアートフェスティバルが増えるなか、これだけ率直に、ラディカルに、現代の社会課題に切り込んだ「あいちトリエンナーレ2019」の姿勢をリスペクトしています。アファーマティブアクションの件も含め、自分にはまだできてないことを先にやってくれている。「表現の不自由展・その後」についても、監督である津田さんがこのトリエンナーレにとって必要なものと考え、提案したとして、それを認めたAT実行委員会と愛知県の判断も讃えるべきだと思います。なかなかいないと思うよ。こんないかにも「炎上」しそうな案件を通してくれる主催者(自治体)。そのこと自体が残念なことなんだけど。

なので私としてはまず、この展覧会の中止を決定したAT実行委員会と愛知県を批判することは避けるべきだと思います。悔しい気持ちはわかるけど「表現の不自由展」実行委員会にも自制してもらいたい。そしてなぜ、この展覧会が中止されなければならなかったのかについて、それこそ「情」の観点も含めて検証していくことが必要だと思っています。さまざまな「情」を呼び起こす、自らの「情」と向きあう、そして「情」を巡る自己との、他者との対話を始める。それがこのトリエンナーレの趣旨だと思うし、私自身も、今を生きる私たちの、この世界の現在地を、来し方行く末を思考し、対話を呼びかけることが現代アートの力だと信じているから。だからこそ、戦う相手、批判すべき相手を間違えてはいけない。この展覧会を、対話の機会を封殺したのは誰か。

あと長くなってきちゃったからもうやめたいけど件の少女像について。作品としての美醜は現物を見ていない私が言及すべきではないと思いますが、河村市長が「日本人の心を踏みにじる」と発言しているそうで。おそらく電凸している輩もそう感じたということなのでしょうが、その背景に女性に対する性暴力なんてたいしたことじゃないとでも思ってそうな気配が漂ってて心底胸糞悪い。日本統治下の韓国で実際に辛い目にあった女性たちがいることは安倍総理が談話で正式に認め、謝罪していることでもある。その女性たちが当時どんな思いでいたか。そのことに想像を巡らすことがどうして「日本人の心を踏みにじる」ことになるのか。人の心を踏みにじってるのはお前らだ。